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n史郎がツイッター字数制限以上のつぶやきをしたいときの置き場です。

ソーシャルボンド理論から見る桜木花道と水戸洋平について

はじめに

この記事では、スラムダンク水戸洋平の名台詞の一つ、

「いや…そうじゃねえ……バスケット選手になっちまったのさ…」

出典:SLAM DUNK 新装再編版 19 (愛蔵版コミックス) #260 借りは即返さねばならない 

を取り上げる。

上記のセリフは、vs山王戦において、試合中に暴れず耐えた桜木花道の様子を「大人になった」と表現する桜木軍団を水戸洋平が訂正し、言い直したものだ。

話の流れからしても、この言い直しは何の違和感も生んでおらず、その味わい深さをわざわざ再考する必要もないと思うのだが、では

・「大人になった」のではなく、「バスケット選手になっちまった」とはどういうことか?

・洋平がわざわざ言い直した時の心情とはどういったものか?

と問われて回答できるか?と言われると、難しいぞ?となったのである。

これに答えるためにはソーシャルボンド理論をヒントに深堀っていくと良いのではないか?と思いつき、その思考の軌跡を記載していく。

 

ソーシャルボンド理論とは?

ソーシャルボンド理論とは、ハーシ(Hirschi, 1969)が提唱したもので、「人はなぜ犯罪を犯さないのか?」という性悪説的な立場から犯罪に向き合っている。この理論では、人が犯罪を起こさないのは社会的絆(ソーシャルボンド)があるからだとしている。その社会的絆とは、以下の4つに分類できる。

• 愛着・・・attachment 身近な親しい人への愛情や敬愛

• 投資・・・commitment これまで自分が積み上げてきた地位や実績

• 巻き込み・・・involvement 自分の活動が忙しく犯罪に走る余裕がない

• 信念・・・belief 社会のルールや法律を守るべきという信念

逆にいうと、この4つの絆が切れてしまうと人は誰しも犯罪を犯す、ということである。この理論を軸に、桜木花道という男を見ていきたい。

 

ソーシャルボンドが皆無の男・桜木花道

結論から言うと、バスケットボールを始める前の桜木花道はソーシャルボンドが皆無である。なにせ、スラムダンクとは不良少年の桜木花道がバスケをする漫画だ。前提として彼は不良であり、不良=非行に走っている=絆が切れている、と見るべきだ。

「信念」と「巻き込み」が切れていることは非常にわかりやすい。彼が不良まっしぐらな時点でこの二つは確実にないと言っていい。(「非行に走ってはいけない」と思えるなら不良をやっていないし、不良をやっている時点で時間を持て余している)

「投資」についてもそうで、ここは花道が後先全く考えず50人に告白しまくったり、(いくら流川が晴子に冷たい反応を見せたからといって)完全なる逆恨みで流川を殴り飛ばしたりする短絡加減からも明白である。

なぜ彼がここまで短慮に振る舞えるかというと、配慮すべき何かが彼の中に全くないからだ。要は、花道は失うことを恐れるほどの社会的な功績や実績、あるいは立場を全く有していないのである。

残るは「愛着」だが、これも花道は切れていることが窺える。明確ではないものの、花道は家族が不在ではないか?と思える描写が原作には見られる。(父親が倒れた描写から父との死別を想起させるし、作中群を抜くほど女性に不慣れな様子から母親も不在ではないかと予感させる。)

恋人も、恋人候補になりそうな幼馴染の相手もいないので、その子を悲しませたくないという絆もない。

花道が暴れて悲しんだり困ったりする、花道にとっての親しい人はいない。だから花道は暴れる自分を止める理由を持たない。こういうわけである。

 

と結論づけようとして、いやまてよ?と言いたくなる。信念、巻き込み、投資が切れているのは認めても、愛着は切れているか?だって、花道にはいるではないか、桜木軍団というなによりの花道の仲間が。中学時代からの友人である彼らがいるではないか。彼らこそが花道の「愛着」ではないのか?

だが、桜木軍団ではダメなのだ。なぜなら彼らも花道と同じ、絆の切れた少年たちだからである。

 

自分では花道と社会をつなげられないとわかっている洋平

ソーシャルボンド理論とは、いわば社会と犯罪を天秤にかけて、社会に傾いているうちは罪を犯さないというものだ。社会との絆が人質状態なのである。

であるなら、「愛着」における「親しい人」とは、犯罪を犯したり非行に走ったりすることで「切れてしまう」誰かでなくてはならない。

その条件で行くと、桜木軍団は全くその「誰か」にはなり得ない。なぜなら、彼らは花道と一緒に非行に走る少年たちだからだ。軍団も花道と同じ、社会とつながれない、ソーシャルボンドの切れている少年たちなのである。

むしろ、花道は非行を通して彼らとつながっている。彼らとつながっていることは、社会と切れていることの証と言っていい。

 

その事実を軍団の中で誰より明確に理解していたのが、水戸洋平なのだと思う。彼が、花道と社会の接続を誰より願っていたのは明白だ。バスケを続けるように直接・間接問わずお膳立てし、三井襲撃事件絡みで自己犠牲を厭わない活躍を見せたことからも、彼の献身的な姿勢が読み取れる。

こうしてみると、洋平が花道と晴子の中を取り持つように動いていた理由にも説明がつく。というのも、花道が晴子に一目惚れした際、洋平は最初引き止めているのだ。魅力的な彼女にはきっと男がいるので、花道がフラれて傷つくのは見えている、と。彼氏こそいなかったものの、晴子が流川にゾッコンで、花道に脈はないということは物語開始早々、明らかになったわけだ。

そんな洋平が、憎いくらいのさりげなさで、花道の好感度が上がるよう晴子にアピールするのはなぜか?親友の恋を応援したいから?多分、それだけではない。

それは、例えくっつかなかったとしても、晴子なら花道の「愛着」になり得るとわかっていたからだ。花道の「愛着」になること、それは、社会と切れた生き方をしてきた自分には絶対に果たせない役目だと洋平はわかっている

偶然の産物とはいえ、社会とか細い糸でつながろうとしている親友が目の前にいる。その時、洋平が下した決断とは、親友が気づかないうちに糸を切って引き摺り下ろし、断絶したものたちの集まりの中で連むことではなかった。

なんとかしてそいつと社会の間のか細い糸を確かなものにして、二度と社会と切れないように、二度と「切れてしまってもいい」などと思わないように、そのために自分がやれることをやるという、そういうものだったのではないかと思う。

たとえ親友と自分はつながれず、親友が社会とつながった途端、自分が遺される側になるとわかっていても、だ。

 

バスケを介して社会とつながる桜木花道

洋平の努力の甲斐があったのか、それとも彼の助力なしでも花道はそうなる運命なのか、それはもはや誰にも分からない話であるが、花道は見事に社会とつながった。花道と社会をつなげたもの、それはバスケである。

ここで、ソーシャルボンドの四つの絆を振り返りたい。最終話時点での花道は、どうなっているだろう?

• 愛着・・・attachment 湘北バスケ部の面々や晴子を尊重したい、裏切りたくない

• 投資・・・commitment 自分がバスケに費やした4ヶ月、ひいてはバスケそのものを失いたくない

• 巻き込み・・・involvement 部活一筋、バスケで忙しい

• 信念・・・belief ?(ギリギリ、バスケに誠実でありたい、くらいのレベルはあるかも

少なくとも、愛着、投資、巻き込みの面では、絆が出来上がっているはずだ。

こうしてみると、背中の怪我のせいで選手生命が絶たれることに危機感を覚えた花道の気持ちもよくわかる。花道は無意識のうちに、バスケを失うこと=バスケを接点につながった社会を失うこと、というのを理解していたのではないだろうか?

おそらくスラムダンク読者の中で「ついこの間まで不良で、たった半年未満続いた部活にそこまでマジになるなんて……」と思う人はいないだろうが、花道にとってのバスケはただのスポーツや部活を超越している。花道にとってのそれらは、一度社会と断絶してしまった自分をもう一度社会とつないでくれる命綱なのだ。

あるいは、スポーツや部活はただの運動や学校活動を越えて、そういう「切れてしまった人々」をつなぎ直す力がある。スラムダンクはそういうことを教えてくれる一面もあるのではないだろうか。

 

「大人になった」のではなく「バスケット選手になった」とは?

では、いよいよ最初の問題提起に移る。

なぜ水戸洋平は、自身の怒りを抑えた桜木花道の判断を「大人になったから」ではなく「バスケット選手になったから」と訂正したのか?

それは、「我慢を覚える」などといった、”遅すぎた第一反抗期の卒業”では説明として不適だと、水戸洋平はわかっているからだ。

時間経過が解決するはずものがようやくアイツにも訪れた、というのでは説明がつかないことが、今、まさに花道に、起きている。それは、バスケットボールを通じて桜木花道は社会とつながった、ということだ。言うなれば、桜木軍団の誰よりも真っ先に大人になったのが花道なのだ。その偉大な功績を、未だ社会と繋がれていない自分達が「大人になった」などと言えるはずがないと、そういうことなのではないかと思う。

社会と断絶した不良の桜木花道はどこにもいない。ここにいるのは、社会のど真ん中で真剣にボールを追いかけ回すバスケット選手の桜木花道である。

水戸洋平が言いたかったのは、きっとそういうことだ。

 

自分が必死で社会とつなげようとした男が、今まさに社会とつながり、ここにいる。それは社会と切れっぱなしの自分達との断絶を意味する。それでも構わないと思ってここまでやってきたはずで、そうまでしてでも見たかった景色がこれだと、洋平は自分で決めたはずだ。

実際そうなってしまった有様を目の当たりにした時の、確かに湧き上がる寂しさをきちんと認めて逃げずに向き合うために、水戸洋平はあえて訂正し、自分に聞かせるようにそう言った。それがあの表情の理由ではないかと思う。

 

余談:「自分の何か、みつかるといいな」とは?

スラムダンク原作完結後の10日後を描いた「あれから10日後」の桜木軍団の「自分の何か、みつかるといいな」も、ソーシャルボンド理論を通して見ることができる。

これは決して、「花道のように、自分が主役になる何かを見つけるべき」とか「応援する側ではなくプレイヤーになれ」と言う意味ではないと思っている。

これはまさしく、「社会とつながるための、自分にとっての何かを見つけよう」ということなのだと思う。花道が一抜けしてしまった中で、残された不良少年である軍団4人も、きっとこの後社会とつながれるであろう、という明るい未来への予感なのだと思う。

もちろん、花道のように自分が主人公になれる何かを通じてでもいい。恋人を作ってもいいし、仕事を始めるでもいいし、それはなんでもいい。

そして、忘れてはいけない。桜木花道は先に社会とつながっている。だから、桜木花道とつながることで、桜木花道を通して社会とつながれるのだ。

 

「花道に顔向けできないような真似は、できない」

 

その理由一つで、今度は社会とつながれる。お互いがお互いの「愛着」にはなれなかったはずの軍団は、桜木花道を起点に社会とつながれるようになった。

そして、まさに全員が「そう」だからこそ、最後に「自分の何か、みつかるといいな」というセリフが出たのではないか?

きっと水戸洋平は、花道のためとはいえ、汚れ役を買って出ることはできなくなるだろう。なぜなら、彼もきっちり社会とつながるはずだから。それに失望したり幻滅したりする花道は、絶対にいない。だって、彼もきっちり社会とつながっているから。

社会とつながることで、みんなとつながれる。そういう新しい絆にシフトする軍団を、桜木花道水戸洋平を、期待せずにはいられない終わり方だったと思う。