140字以上メモ

n史郎がツイッター字数制限以上のつぶやきをしたいときの置き場です。

未だ唯一の人類である愛抱夢は楽園から抜け出すことはできるのか?

エスケーエイト、11話が公開された。現時点ではAbemaビデオで無料見逃し配信中である。

gxyt4.app.goo.gl

 

※配信日が少し遅れるが、AmazonPrimeでも絶賛配信中である。

#01 PART 熱い夜に雪が降る

#01 PART 熱い夜に雪が降る

  • メディア: Prime Video
 

 

さて、11話の終盤、愛抱夢はこう言う。

「僕の世界には僕しかいない」

これを聞いて、ようやく愛抱夢のモチーフが「アダム」である理由に納得いったので、メモがわりとしてこの記事を書くに至った。

つまるところ、愛抱夢のモチーフがアダムである理由は、愛抱夢が「愛」を司るキャラクターだからでもなければ、運命の相手=イヴを追い求めるキャラクターだからでもない。

それは「僕の世界には僕しかいない」という「孤独」を司るキャラクターだからなのだ。

 

運命の相手探しはアダムではなくプリンスチャーミングの十八番である

愛抱夢というキャラクターには、常々違和感を抱いていた。

というのも、彼の行動——自分にとっての運命のイヴを探し回る行動——だけを見ると、彼のやっていることはアダムというよりガラスの靴を唯一の頼りにシンデレラを探し求めるプリンスチャーミングのように思えたからだ。

アニメ9話冒頭の回想シーン、おそらくエスの走りとも思える山奥のコースで、愛抱夢はお眼鏡にかなった少年とビーフに勤しんでいる。結局この少年はコーナーで曲がり切ることができずに落下、負傷したところをチェリー及びジョーに保護されている。この行為は周囲から「スケーター潰し」と呼称されているが、当の愛抱夢本人は落下した少年には目もくれず月を見上げてこう言う。

「どこかにいないかな、僕だけのイヴが」

側からの見え方は置いておいて、愛抱夢の視点で考えるとこの「スケーター潰し」の目的は「スケーターを潰す」ことではないのは明らかである。愛抱夢はスケーターを潰して愉悦に浸る遊びに興じているわけではない。彼にはれっきとした目的があり、その目的のために行動した結果スケーターが潰れているというわけだ。外部の人間には当然愛抱夢の「目的」は見えていないので、表に出ている結果だけを指して「スケーター潰し」とみなしているのである。

では、愛抱夢の目的とはなんなのか?それは彼自身が口にしている。「イヴ探し」に他ならない。彼にとっての「イヴ」たらしめる要素がなんであるかは正確には不明だが、おそらくその条件を満たす人間を彼は探し求めている。その確認方法があのビーフであり、結果として多くのスケーターがその過程で大怪我を負う羽目になっている。これが愛抱夢視点の事実だと思う。

しかし、ここでおかしなことが起きてくる。愛抱夢のこの「イヴ探し」は聖書に登場するアダムにはない要素なのだ。この行為はどちらかというとシンデレラに登場するプリンスチャーミングの十八番のように感じる。あの危険なビーフをガラスの靴の試着と置き換えると分かりやすいと思う。

この「運命の相手探し」は世の中のほとんどの人間にとって理屈上可能であったとしても、アダムにだけは絶対にできない行動なのだ。なぜならアダムはそもそも運命の相手を探すための対象すら持ち合わせていないからだ。だってアダムはイヴが生まれる前まで、最初の人類であり「唯一の」人類なのだから。

 

アダムはイヴを見つけたのではなく神がアダムにイヴを与えたということ

そもそもアダムとはなんなんだ?という話であるが、キリスト教旧約聖書に則って

・神が地面の土(アダマ)から造った最初の人類

という理解でこのブログは進めたい。

このアダムであるが、さてどうやってイヴと出会うのか?という話だ。アダムが「最初の人類」である以上、イヴが同時にこの世界に現れたという線はないだろう。時系列的に絶対にアダムより後に誕生しているはずである。

たとえばアダムの居住圏より遥か離れたところでアダムの後に創られた二人目の人類がイヴであり、アダムの捜索行動の果て二人がついに出会ってしまった……となればこの性質は極めてエスケーエイトの愛抱夢の行動に近い。が、もちろんそうではない。なぜならイヴとは、

・「人が独りでいるのは良くないから」という理由で神がアダムの肋骨から創った人間

だからである。(実際はその前に動物を色々創るのだが、アダムと助け合える存在にはなれないということでイヴの創造に至ってる)

さて、明らかな違和感である。アダムにとってイヴが運命の相手であることは間違いない。なにせ神がアダムの孤独を案じて用意した生き物の中でもアダムの一部から創られた、アダムと最初の同種なのだ。これを運命の相手と言わずしてなんと言おう。

が、この運命こそが違和感なのだ。アダムは己の能動的な行動の結果イヴと出会ったのではない。「神が」アダムは孤独であるべきではないと判断し、「神が」陸の獣や空の鳥ではアダムの相手としては不十分だと判断し、「神が」アダムの肋骨から創り上げた人間こそがイヴなのである。イヴとは神がアダムに与えた同種だ。

アダムはイヴが創られるまでその存在を知り得ることなどなかった。自分と同じ姿形の存在がこの世界に存在し得るということすら知らなかった。当たり前だ。だって自分の骨からイヴが創られるまで、本当にこの世に人というものはアダムしかいなかったのだから。

アダムはイヴを探すことなどできなかった。アダムは最初で唯一の人類だから。こんなことは、「同種」という概念を持たないアダムにしか起きえない状況だ。だって、イヴ以降の人類は知っている。たとえその目で見たことはなかったとしても、この世界には自分の同族が存在しているということを生まれた時から知っている。イヴ以降の人間は、少なくとも人間から創られている。自分の一つ前のルーツが同種であるという確信がある。

アダムにはそれがない。神の手で土から創られたとされるアダムが存在したのなら、彼は唯一、人から生まれていない人間なのだから。

「人間」に限った話でもない。この世のありとあらゆるものには多少の違いはあれど同種と呼べるものが存在することを我々は期待する。何か真新しく画期的な製品やサービスがこの世に現れても、我々は第二第三の類似品が現れることを予想している。「最初」「パイオニア」「ベスト」そんな言葉が世の中に踊るのは、結局のところ同種や同族がこの世に溢れているからである。同じ括りの中に収まる存在、事物があるからこそ、序列をつけるという概念が生まれる。

この概念がなかったイヴ以降の人間なんてこの世にはいるはずもない。ナンバーワンよりオンリーワンなどというフレーズに我々が食いつくのは、同種の有象無象が蔓延るこの世の中に我々が疲れているからにほかならない。

だから、アダムだけなのだ。アダムだけが「僕の世界には僕しかいない」という孤独を知っている。この孤独を身をもって味わったことのある存在は、アダムしかいない。イヴ誕生以前のアダムは、本当に唯一の人類だった。比喩でもなんでもなく、その世界には人間はアダムしかいなかったのだ。同種を探すという発想があったのか疑わしいほどに独りだった。

だからなのだ。愛抱夢がプリンスチャーミングではなくアダムである理由は、ここにある。愛ではない、運命の相手でもない。本当の孤独。これこそがアダムの名前を冠する理由で、愛抱夢というキャラクターの本質だったのだ。

 

一人多役は破滅のヒントということ

アニメ1話、スノーことランガの滑りをその目に映して以降、愛抱夢は己のイヴのターゲットとして彼を見定める。そしてそれは5話の直接対決で確信的になるのだが、今になって思えば愛抱夢はかなり意味深なセリフを吐いていた。それは愛抱夢のダンススケーティングに臆するどころか食らいついて自分から仕掛けに来るスノーを受けての言葉である。

「いいね。どうやら君は僕と同じ人種らしい」

これなのだ。愛抱夢にとってのイヴとは、やはりアダムにとってのイヴであった。

同種なのだ。愛抱夢が探しているのはスケーティングが上手い人間もない。自分とのビーフについて来られる人間でもない。「自分の同種」を彼は探している。彼にとって「同種」たりえる存在とは、ランガだけなのだ。だからこそ、11話で自分に競り負けるほどの成長と機転を見せ、愛抱夢の狂ったスケーティングから逃げることなく立ち向かってそれを超えてきたレキに激昂し徹底的なまでの拒絶の姿勢を見せることはあっても、レキをイヴとすることは決してなかった。なぜならレキは愛抱夢にとって同種ではないからだ。

しかし、この「イヴ探し」の仕事は本来アダムが負う役割ではない。これは神が担うものであるし、神はイヴを探しはしない。神はイヴをアダムのためにアダムを元に創るのである。

愛抱夢は今、無茶苦茶な一人多役をこなそうとしている。愛抱夢の世界にはアダムを楽園に連れて行き、連れ合いとしてイヴを創り出す神はいない。だから愛抱夢は自分でエスという楽園を作り出し、自分だけのイヴを探そうとする。

もしかせずともそれは、神道という狭い世界に閉じ込められ、言われるがままの相手を伴侶にしなければならない彼の現実への反発なのかもしれない。彼からすれば神道の家は偽りの楽園で叔母連中は偽りの神でまだ見ぬ見合いの相手は偽りのイヴで、だからすべて自分がやってしまえと、自分の望む神がいないのなら神の役割も担ってしまえと、そういうことなのかもしれない。

これはうまくいかないだろう。なぜか?愛抱夢がアダムであるなら、愛抱夢は決して神と同じ技をなすことはできない。アダムはイヴに勧められる形で知恵の実を口にするが、そのイヴに知恵の実を勧めた蛇はこう言った。その実を口にすれば「神のように」善悪を知る者になるだろう、と。だから無理なのだ。神の力のほんの一つである善悪の識別の獲得ですら禁忌に触れ楽園から追放される存在であるアダムが、知恵の実もなしに神と同じ所業を成すのは不可能だ。

だから愛抱夢がアダムである限り、彼のイヴ探しは成功しない。彼は愛抱夢であるかぎりアダムであり、神にはなれない。そしてイヴを知る前のアダムとは未だ唯一の人類で、彼のやっていることというのはせいぜい陸の獣や空の鳥から自分の同種を探そうとすることと同義だ。イヴのいない世界でイヴを探すアダムが、愛抱夢だ。

そう、だから、きっとランガですら愛抱夢の同種ではない。愛抱夢は愛抱夢であるかぎり、彼の世界でたった一人きりなのだ。

 

神もイヴもいなくても

では、どうすればいいのだろう?神を持たない世界にたった独り取り残され、イヴのいない世界で延々とどこにもいないイヴを探し続ける愛抱夢はどうしたらいいのだろう?

その答えはたった一つだ。己が愛抱夢ではなく「愛之介」であると気づくことに他ならない。

「愛之介」はアダムではない。最初の人類でもなければ唯一の人類でもない。神からわざわざ相手をあてがわれることを待つ必要も、躍起になって探し回る必要もない。楽園の内でも外でも世界は別に等しく平和で等しく危険で、どこに行って何をしようと究極それを阻むことのできるものは己以外いないのだ。

愛之介は独りかもしれないが独りでもない。自分が独りだと思えば独りだし、そうでないと思えばそうでないのだ。だって世界は夥しいくらいの人間で溢れている。そこにつながりがあると己が思えるならコンビニの店員とだってつながっているし、逆にそこにつながりがないと己が思うのなら夫婦だって独りと独りだ。

本当の独りを知っているのは、最初の人類でイヴが創られる前までは唯一の人類だったアダムだけだ。イヴ以降の人類は、究極的には独りにはなり得ない。愛抱夢は愛之介であってアダムではなく、そして愛抱夢である必要もない。

楽園に留まり続ける必要もない。家を捨ててもいい。職を捨ててもいい。生まれ育った由緒ある土地を放棄して全く見知らぬ地に足を踏み入れてもいい。

その隣に誰かがいてもいいし誰もいなくてもいい。誰かがいて欲しいなら自分で探してその手を取ってみてもいい。取った手が振り払われるなら受け入れられるまで粘ってもいいし、諦めて他の手を探してもいい。あるいは自分の手をつかんできた誰かを受け入れてもいい。拒絶をして別の誰かに握られるのを待ってもいい。

そういう自由と可能性が、アダムではない愛之介にはあるのだと気づいた時、きっと彼の世界には初めて彼以外の何かが現れるのだろう。

 

ところで愛抱夢の世界には神もイヴもいないけれど、あるいは偽物の楽園と偽物の神と偽物のイヴ候補しかいないけれど、おかしなことに蛇だけは本物として存在する。その蛇は愛抱夢が再びスケートを愛することを望んでいる。そのきっかけは自分ではなくランガだという。自分は身を引くのでランガと滑れと愛抱夢に告げる。

この蛇は——菊池は、己がイヴになるでもなく、あるいはイヴを探し出すでもなく、アダムに直接知恵の実を授ける気だった。知恵の実を授けるというのもおかしいかもしれない。蛇の望んだことは、エスという楽園からアダムを追い出すことだ。そのために建前上過程がいるというならそれは知恵の実を授けるということで、それはアダムに恥を与えるということになる。菊池は愛抱夢を負かすことでそれを果たそうとした。

しかし、それは間違いなのだと蛇は気づいた。蛇は愛抱夢を思ってこそ楽園から追い出そうと画策していたわけだが、それではナンセンスだと気づいたのだ。それでは愛抱夢はアダムのままで、永遠に独りだから。

だから蛇はエデンから追い出すための建前として知恵の実を授けることをやめた。世界は自由で広くて意外とどうにでもなって、スケートは楽しくて、実はたったそれだけで良いと気づかせるためにイヴを差し向けた。蛇は神にもイヴにもなれない。蛇はイヴを唆すしかアダムに知恵の実を授ける術を持たない。蛇では世界の真実をアダムに伝える役割を担うことはできない。それに気づいたから菊池は辞退しランガに席を譲ったし、ランガに辞退を勧めるでもなくそのまま二人の駒を決勝に進めさせたのだ。

建前ではなく本当の願いとしての知恵の実を口にした愛抱夢は恥を覚えるでもなく神から追われるでもなく、世界の広さと同族の多さを知って自らの足でエデンから出て行けたらいい。ちっぽけな箱庭の外は想像以上に自由で、自分自身は最初でも唯一でもなく有象無象の一角に過ぎないと気づけたらいい。

彼がかつて過ごした小さな楽園の生き物たちからは想像を絶する非難を浴びせられ否定されることになるだろうし、彼が逃げ出すことを楽園の住人は認めはしないし赦しもしないし、憎み恨み唾を吐くのだろう。

ただ、そんなことどうでもよくなるほどやはり世界は広いし人は多くて、そして悲しくなるほど世界は自分を保証はしてくれない。楽園の中でも外でもそれは変わらない。だから楽しんだもの勝ちなのだ。そしてスケートは楽しい。

蛇は、愛抱夢がそれに気づくことを望んでいる。愛抱夢でもなければ神道でもない、ただただスケートは楽しいのだと無邪気に笑う男の子の顔をもう一度見たいと願っている。蛇の願いは叶のだろうか。愛抱夢は楽園を出られるのだろうか。

 

来週の最終回が楽しみである。