140字以上メモ

n史郎がツイッター字数制限以上のつぶやきをしたいときの置き場です。

「誰のものでもない誰か」の「結界」が見えたとき

※この記事は何かの漫画やアニメの感想ではなく、「子持ちや結婚を許されないヒーロー」をきっかけに最終的には「公式と解釈違いとはどう言う感情か?」を私が内省する謎記事である。

 

唐突だが、現在バットマンを勉強中だ。ことのきっかけは映画「JOKER」を見るにあたり全くバットマンを知らないままではダメだろうとダークナイトトリロジーに手を出したあたりから始まる。

露骨にどのあたりにハマっているのかわかりやすいが、現在ダークナイトトリロジーバットマンvsスーパーマン、レゴバットマンザムービー、ニンジャバットマンを見終わり、邦訳コミックスについてはロビン:イヤーワン、デス・イン・ザ・ファミリー、ハッシュ、アンダー・ザ・レッドフードまできて現在バットマン・アンド・サンに手をつけたあたりである。

 

バットマンにはサイドキック(相棒兼弟子的な存在)としてロビンという男の子(あるいは女の子)がいる。彼・彼女らは立場としてはバットマンの子供的なところがあり、養子になっている子もいる。

全くバットマンを知らない人からすると「ん?なんかロビンがいっぱいいるみたいな書き方だな?」と思われるだろうが、その通りで紆余曲折色々あって、このロビンの中の子は代替わりしていく。(ロビンとはバットマンの相棒としてのヒーロー名で、個人の名前ではない)

その中で一番最新(という言い方は正しいのか?)がダミアンという男の子なのだが、この子だけはバットマンの実子なのだ。バットマンが敵対する組織の首領の娘・タリアとバットマンの間に生まれた試験管ベビーで、バットマンはそもそもこの息子の存在を知らなかったということになっている、今は。

 

そう、実はこの「バットマンとタリアの間に子供がいる」というネタはサン・オブ・デーモンとして1980年代後半に世に出ていた。世に出ていたのだが、正史(≠IFネタやパラレルワールドネタ)でバットマンが父親になるというのが当時受け入れられなかったようで、このネタは黒歴史としてスルーされ続けていたらしい。

その藪の中の蛇を叩き起こしたのが2006年に出たバットマン・アンド・サンであり…と、私が今日書きたい記事の前段はここまででokなのでこれ以降はカットする。

 

ポイントは「バットマンが父親になるというのが当時受け入れられなかった」という部分だ。なんとなくこの感情はわかる。わかるけど、なぜダメなんだ?となる。ヒーローで不殺の誓いがあるとはいえ、復讐に近いものを動機として力を持って悪を制すバットマンに結婚や家族というのは明るすぎるとか?それもあるだろうけどそれだけだろうか?

 

この、黒歴史になったバットマンの息子問題を聞いて私が真っ先に同案件として思い浮かんだのが、機動戦士ガンダム逆襲のシャア」である。

この映画はアムロとシャアの最終決戦を描いた話であるが、最初アムロはZで恋人だったベルトーチカとの間に子供ができ(身ごもっている段階でまだ生まれていない)、父親になった設定だった。これは上記と同じような、結婚したアムロは受け入れがたいという理由で却下となり、皆がよく知るあの映画の形に収まっている。

ここでまた出た。結婚したヒーローは見たくない。不思議だ。というのは、恋愛するヒーローはokだからだ。バットマンアムロもロマンスのお相手は存在する。結婚した姿は見たくないと言われたアムロベルトーチカと別れたことになり、メカニックのチェーン・アギという新しい彼女ができている。ただ、チェーン・アギは作中で死ぬ。

そう。結婚・子持ちと恋愛の大きな違いは、前者の関係破綻は割とスケールの大きい話だし責任を問われる話で関係の維持が一般感性的に推奨されそうだが、後者は簡単に壊すことができる。特にみんなのヒーローには絶大な大義名分がある。みんなのヒーローはその字面の通り、誰かの彼氏・彼女である前にみんなのヒーローなのだ。あなただけの誰かではいられない、と恋愛関係にある誰かを振ってしまうスパイスになる。つまりヒーローがみんなのものであることを装飾する為にロマンスは有効だけど結婚までされるとその時点でヒーローはみんなのものじゃなくなるので破綻するのだ。

つまり、ヒーローのアイデンティティとは「誰のものでもない誰か」ではないか?と思い至ったのだ。

 

私のものにならないことなんて百も承知だ

アイドルのおっかけをしている人や二次元のキャラクターに入れ込んでいる人を相手に「どう考えても付き合えない(あるいは結婚できない)のに、なんでそこまで夢中になるの?」と指摘する人がいる。例えば私も二次元のキャラクターに入れ込んでいるときに「二次元なんてそもそも次元が違うのになんでそんなに夢中になってハマれるの?実在しないんだよ?絶対付き合えないのに」と言われたことがある。

確かに世の中にはガチ恋勢という、本当に対象に対して恋をする人がいる。当然、主体である自分が何に恋をしようがそれは自由だし、その恋が成就する見込みありきで恋をしなければならない道理は一つもない。成就する見込みが限りなくゼロだったり、実質ゼロ(相手が次元の違う人とか……つまり二次元のキャラクター)だとしても、だからと言って恋をしたらいけない理由も追い求めてはいけない理由もない。

が、今回私が言いたいのはそういうことではない。私は、私が魅力的だと思うキャラクターやアイドル、俳優、芸人、タレント、エトセトラエトセトラ……が私のものになるとかならないとか、そんな風には見ていない。むしろ逆だ。「私のものにならない」ことがわかっているからハマっているのだ。この「私」は今ブログを書いている私個人を示さない。この「私」は数学的にいうならnだ。つまり、「誰のものにもならない」ということだ。

仮に「自分のものになるかもしれない」という可能性が魅力になるというなら、「二次元の誰かをおっかけてないで現実を見て彼氏を作ってみたら?」とか、「絶対付き合えないアイドルにお金を費やしてないでクラスの隣の席の女の子をデートを誘う自信を養うために身ぎれいにするための費用に充てた方がマシだよ」という説教は、的をえすぎて図星中の図星ということになるだろう。

でも、これが根本から的を外れていることもある。というのは、確かに世の中には一定数パートナーや子供ができて、つまり自分自身がすでに「誰かの何か」になってしまった人たちが、それをきっかけにキャラクターやアイドルを追うことをやめるケースは多い。その一方で、夫や妻、子供を持つ「誰かの何か」であるはずなのに、ある俳優が結婚したと聞いて「ロス」を起こす人もいるだろう。○○ロスを起こす世の中の人全てが未婚の女性や男性だけとは流石に私も思えない。

したがって、やはりこの「誰のものにもならない」ことは一つの魅力として確かに存在するのではないか?と思うのだ。

 

「誰のものにもならない」人は全てにおいて平等だし誰も裏切らない

「誰のものにもならない誰か」を好きになることは、すごく「楽」だ。「誰のものにならない誰か」はその名の通り、誰のものにもならない。だから、何をしようが何をしまいが、結果は全て同じなのだ。

例えば私が死ぬほどアムロ・レイが好きだったとして(アムロくんは可愛い)、関係各社に「お願いですからシャアとクワトロで二体フィギュアを作るならせめてどこかの世代のうちの一つでいいのでアムロのフィギュアを出してください。個人的にはファーストのアムロくんがいいですけどアムロ大尉も捨てがたいです。Zが嫌とは言ってません」というメールを毎日50通送りつけたとして、億が一の奇跡でアムロくんのフィギュアが出たとしてもアムロくんは絶対に私のものにはならない。(それはアクシズにめり込んだシャアと共にサイコフレームの光にさらわれるように消えてしまったから、という理由ではなく。)アムロくんがそれを見て「僕のことをそこまで応援してくれるなんて、この人にあってみようかな……」とかには地球が120回生まれ変わってもない。

その「地球が120回生まれ変わってもない」こと、つまり「やっても無駄だし報われることがない」のが大事なのだ。もしアムロくんが私の会社の同僚なら、私がご飯に誘う勇気を少しでも出していれば、もしかしたらいい感じになれるかもしれない「報われる可能性」というやつが「私の中で」「1%くらい存在してしまう」。現実問題としてアムロくんにとって私がアリかナシかの話じゃない。「私の中で」「1%くらい存在してしまう」ことが大問題なのだ。なぜなら、知らない間にアムロくんが別部署の同期と付き合ってしまっていたら「私があの時ご飯誘ってたら、もしかしたらそれをきっかけに仲良くなれてたかもしれないのにあの時勇気を出さなかったから私が自分で1%の可能性を潰しちゃったの〜?!?!」と落込む羽目になる。自分の選択の答え合わせをし、PDCAを回すはめになるのだ。自分の決断に責任を持つことになる。

しかも、これはギャルゲーとは話が違う。私が仮にご飯に誘っていて、確かに友達にはなれたとしてもアムロくん的に「ナシ」であれば私は何をどうしたってアムロくんの彼女にはなれない。たとえアムロくんと一度も会話したことがなくてもセイラさんばりの美人はすれ違っただけでアムロくんの気を引けるかもしれない。「誰かのものになり得る誰か」を追うということは、当たり前すぎて当たり前なのだがそうした「不平等さ」が間違いなくあるのだ。そして「誰のものでもない誰か」にはそれがない。

二次元はわかりやすい。じゃあアイドルは?と言う人はいるかもしれない。彼氏になるとか彼女になるとかまではいわずとも、アイドルから名前を覚えられ顔を覚えられる人がいるじゃないか!と言う人もいるだろう。

でも、これも極めて平等だ。あなたがどんなに醜くどんなに矮小でも、金さえ払えば一定のところまで、つまり「誰のものでもない誰か」が「誰のものでもない誰か」として許す最も接近できるラインまでは金と時間で解決できることが多いし、その仕組みが商売として成り立っているのがアイドルだと私は思っている。「誰のものでもない誰か」は、会場の大きさとか割ける時間とかの関係で「私」の数をどうしても制限する必要になる。そのとき運と金と時間で「私」を選別することはあっても、「私」の人間性や容姿、生まれ、性別で「私」をふるいにかけることはしない。少なくともそういうことに「暗黙のうち」になっているのではないか?

(※でもやっぱりイケメンとか美人とかの方が同じ回数通ってても認知もらいやすいんじゃないの?と思った方、その違和感は大事だからそれを抱えたままよければ最後まで記事を読んでほしい。)

 

ここまではわかりやすいように恋愛ベースで書いてきたので「俺には関係ねーよ」と思っている人は多いだろう。「俺はそのへんわきまえてるよ、推しの○○が結婚しても俺は豹変しね〜から」と思っている人は多いだろう。「推しの○○くんがヒロインの△△とくっついても痛い腐女子や夢女子みたいに炎上しないから」と思っている人も多いだろう。くそ、勝手に炎上して悪かったな。誰の時の何とは言わないけども。

でもこれは、自分にはパートナーや子供がいてすでに「誰かの何か」になっている人も、「誰のものでもない誰か」だって「誰かの何か」になり得るとわかっている人にとっても全く他人事ではないと思う。

なぜならこの心理は突き詰めると、きっと「公式と解釈違いを起こした」と一瞬でも思ったことがある人全てと関係しているからだ。

 

「誰のものでもない誰か」という無関係の上に許された関係

「誰のものでもない誰か」を好きになる利点に、「「何か」になる望みがないので好きでい続けることに努力はいらない」「仮に、「何か」になれないのは承知の上でそれでも「何か」になれない者の中で上位でありたいと思ったら、運と時間と金という平等な手段を持ってして勝負ができる」と行った主旨のことを書いた。

なぜこうまでした平等性が成り立つかというと、「誰のものでもない誰か」は「誰かの何か」にならないので、「誰のものでもない誰か」が誰かを「選ぶ」ことがない代わりに、誰かを「否定もしない」からだ。原則「誰のものでもない誰か」は誰も選ばず誰も否定しない。これは正義のヒーローがわかりやすい。彼が「この人は胸が大きいから助ける」「この人はブスだから助けない」となると、絶対ブーイングが起きるし炎上するだろう。みんなのヒーローはみんなを助ける。このみんなはnだ。そこに私を代入できる。これが「誰のものでもない誰か」の魅力だ。

 

が、一方で、「俺の彼女」でもなければ「私の友達」でもないし「僕の上司」でもない、「誰のものでもない誰か」に嫌に度数の高そうな感情を向ける場面をよく目にする。芸能人の思わぬ発言にSNSが炎上したり、該当の発言にいろんな人のコメントがぶら下がったり、そういうやつだ。日常茶飯事だけど、よくよく考えると凄まじく「変」だと思う。

「今の発言は有名人としてそぐわないと思います」

「責任ある立場ならもっと考えてコメントすべきです」

「企業アカウントを個人アカウントと勘違いしてませんか?」

こうしたコメント全てに同意するわけではないが、正直同じ思いを抱いているケースも多い。「いや、それをその規模の知名度で言っちゃうってどうよ?それ言う必要あったかね?」みたいなやつである。

でも、ふと立ち止まって考えると、これはなんだかおかしい。なぜなら、「誰のものでもない誰か」が何をしようが何を言おうが、それって何をどう逆立ちしてひっくり返ったとしても「関係ない」はずだからだ。

自国の為政者が「女性の選挙権剥奪しま〜す!」等と行ったときに国民が一斉に荒れるのはわかる。女でなく男だったとしてもその国の人間であるなら無関係ではいられないし、民主主義であるならば国民は「為政者を変える」という「関係の仕方」があるからだ。つまり、動けば変わる可能性がある。だとしたら、変えたいなら動かなければならない。そこには「私の住む国」「私が選んだ為政者」という私と相手の関係が確かにあるだろう。

でも芸能人やスポーツ選手やアイドルの一挙手一投足に自分が「関係」していることってあるだろうか?彼・彼女らを好きでいる自分たちが、彼・彼女らから影響を受けることは間違いない。でも、逆方向の発信ってそもそもありえるのか?自分の発言で彼・彼女らの思想が変わったり、反省したり、行動を改めることがあるだろうか?確かに大炎上でもしようものなら活動を再開させるために「火消し」せざるを得ず、結果として謝罪や訂正が入ることはあると思う。

が、思い出して欲しいけれど芸能人やスポーツ選手やアイドルは「誰のものでもない誰か」のはずだ。「誰のものでもない誰か」は「私」とは無関係のはずだ。「自分の事務所の所属員」「自分の作品の登場人物」「自分の会社がスポンサーになっているチームのエース」等、こういう形で言い換えられる「自分とあなた」は関係ある。でも「誰のものでもない誰か」だから「自分とあなた」でいられる場合、そこに関係はないはずだ。

冒頭で、「「誰のものでもない誰か」は「誰かの何か」にならないので、「誰のものでもない誰か」が誰かを「選ぶ」ことがない代わりに、誰かを「否定もしない」」と記述した。これは言い換えると「無関係」ということなのだ。無関係とは関係がないということだ。存在しないものは変わらず壊されず損なわれることもない。否定されることもない。その「ないものはないと証明できない」という悪魔の証明を逆手にとって存在する特殊な関係性が「誰のものでもない誰か」を好きになることなのだと思う。そしてこれは実在する「私」から非存在の「誰のものでもない誰か」に向かっていく常に一方通行の関係だ。「誰のものでもない誰か」から「私」に向かって関係性が向かうことはない。なぜならその時点で「誰かの何か」だからだ。

 

「誰のものでもない誰か」とは、本当にその対象が「誰のものでもない誰か」である、ということではない。それは、観測者である私がその対象を「誰のものでもない誰か」であると認識した、ということだ。

認識するにはそれだけの根拠があるだろう。それは例えば二次元のキャラクターでそもそも同次元の存在でないからとか、相手がアイドルをしているなど「偶像=誰のものでもない誰か」という性質を使って商売をしているので旬が終わるまでは建前上「誰のものでもない誰か」と振舞ってくれるだろうと期待ができるとか、様々だと思う。なので、大抵の場合「誰のものでもない誰か」は「誰のものでもない誰か」であると振る舞い、そう認識してもらうよう行動していることは多いだろう。

でも、それは本当は「誰かの何か」だ。私たちは実在する「誰かの何か」との間に、対象と瓜二つだけれど絶対に存在しない「誰のものでもない誰か」という幻想のダミーをおいて、そのダミーを見ているに過ぎない。

 

無関係という関係の上に成り立つ、幻の「誰のものでもない誰か」との一方通行のそれ。であるのに我々はときにしてその「誰のものでもない誰か」の発言や行動に過剰に反応し、怯え、ときには噛みつき、否定し、SNS上で罵声を浴びせる。

あるいは、例えば自分が大好きで追っている週刊連載版漫画の続きを「読みたくない」と思う人。アニメ雑誌の関係者インタビューを「読みたくない」と思う人。あるいは読んだ後「公式と解釈違いを起こした」と思う人。

自分が、絵が好きだからという理由でフォローした人が、その人と仲のいいフォロワー同士で旅行した写真をアップされるのが面白くないと思う人。フォローした絵師が別のジャンルにはまってしまい別のジャンルの絵をいっぱいあげだしたのが不快だと思う人。

これは観測者が「誰のものでもない誰か」が真実には存在せず、それが崩れ、「誰のものでもない誰か」の元祖とも言える「誰かの何か」との関係が無関係の上に成り立っていると気づいてしまった、あるいは気づきそうになっている状態であることへの必死の抵抗なのではないかと思うようになった。

 

「誰のものでもない誰か」の「結界」が見えたとき

公式と解釈違い、というフレーズがある。読んで字のごとくだが、要は公式が提示してきた展開が受け入れられないときに出るフレーズだと思っている。その理由として、その解釈違いを起こす展開に到るまでに自分が想定してきた「この話とはこういうことが言いたいんだろう」とか「このキャラクターはこういう意味を持って存在しているんだろう」とかいう諸々の予測が悪い意味で裏切られることが挙げられる。

おいおい、あんだけファーストでかっこよかったシャアがなんで突然Zで情けなくなってる上に逆シャアではマザコンになってんだ?!というのも公式と解釈違いかもしれないが、状態は「公式が提示してきた展開が受け入れられない」ということなんだろう。

そう、だから要は「好みに合わなかった」という、ただそれだけなのだ。行った店で食べたパスタランチが2千円したのに麺がコンビニのレンチンもの並だったときに私はがっかりはするけどブチギレはしない。二度とその店に行かないだけでいい。酷評レビューを書く気にもならない。だって時間の無駄だからだ。そのお店にいく未知の人に読まれるかどうかわからない状態で無報酬で「クソマズから金の無駄だよ」と言う気にもならないし、「どうにかしないとあんたんとこ潰れるよ」と店にアドバイスする気もない。

でも私は、急にめだかボックスの話をするが、都城王土くんがあんだけ王様王様していたのに速攻で負け散らかして、考えたくもないけれど球磨川くん早くだしたくなっちゃったから話畳んだの…?みたいに思えてしまった暁には「フザケンナ!!!!!!!!!」と心の中でわめき散らしたし、そこからめだかボックスを真面目に追うことをやめてしまった。(当時ジャンプは毎週買っていたのでその後も読んでいたはずだが記憶がない…)

DIOみたいなキャラクターがその章のラスボス的存在として出てきたと思ってわくわくしたら意外とあっさり負けてしまい、その後すぐに見た目はシンジくんだけどオーラはカヲルくんで悪役としてのタイプ的にはジョーカーみたいな敵が出てきて主役顔負けて活躍し、私が推そうと思っていたDIOはなんだったんだよ?的な状態を存在してもらえれば当時の私の感情に相当近い。

※私はこの王土ショックで当時体重を5キロ落とした。バカすぎる狂気の沙汰で今でもドン引きしている。

 

なんでだろう、と思った。なんでだろう、と思って、それは私がこれだけ都城王土くんのことが大好きなのに作者は私の入れ込み方に見合うだけの活躍の場面、展開、時間を彼に与えてくれなかったことに不満を感じだからだ。

ただ、本当にそれだけだろうか?と思った。先のパスタの例でいくと私は2000円捨てたようなものだが、めだかボックスは毎週買っていたジャンプの中で読んでいた漫画のうちの一つに過ぎなかった。めだかボックスを読むのをやめても私は当時追って読んでいた漫画はいっぱいあったから、金銭的に大損はしていない。なのになんでパスタは平気で都城王土くんはダメなんだろうと思って、ということは私がおかしくなった理由は単に「好みに合わなかった」からではないと仮定することにした。

 

私はこの感情を最近、「結界が見えたから」と例えることにしている。

めだかボックスという話は、都城王土くんが球磨川くんバリに個性を放ち強烈に存在し続けいつまでたっても話のキーでい続ける存在にはしてくれなかった。登場当時は相当「めだかを超える凄さ」のオーラをだしていたので、彼はもっと強敵であり王土戦はもっと重みと凄みと迫力を備えた話になると思っていたのに、全然そうはならなかった。公式はそれを展開として選択しなかった。もっと言うなら公式は球磨川くんという新しいトリックスターのキャラクターを早く出したかったのかな?王土くんのこと、もうこれ以上膨らませられないし早く終わらせよう、みたいに思ったのかな?と「私が」「思えてしまった」のだ。

このとき、私は結界を見た気がした。

都城王土というキャラクターがもっと活躍していてほしいと思う私は「誰のものでもない何か」であると思っていた作品が引いた「想定しうる読者」のラインの外に出された「気分になってしまった」のだ。

否定されるはずのなかった、「誰のものでもない何か」と無関係にならざるを得ない状況を強いられた気になった。私の見ていたはずの「誰のものでもない何か」と目の前で見ているのものには圧倒的にギャップがある。そこで初めて、私と作品はそもそも無関係であることに気づいてしまったのだ。

当たり前だ。オーダーメイドの服でないなら、Sサイズだと丈が短過ぎてMサイズだと袖が長すぎるなんてよくあることだ。だから自分の体型に合う型をよく使う店を探す。あたりまえだ。だって一つ一つのブランドと私は無関係だから。

パスタの味が私の好みでないのも当たり前だ。オーナーは私の味の好みを十分ヒアリングして私の為に作ったんじゃない。だったら味が合わないことだって可能性としては十分ある。

だからいつもそれはある程度予測済みだし、外れを引いたって残念だったとしても怒らないし私の方からそこを選択肢ないという選択をすればいいだけだ。それで終わりではないか。

 

なのに私は、私の気に入った展開にならず私の好きだったキャラクターが、私が全く想定しない顛末になってしまったことに笑ってしまうほどのショックを受けた。それは、私が私と「誰のものでもない誰か」との関係性を見誤ったまま入れ込んでいたが故に他ならない。まずいパスタランチとの距離感は正しく読めていた私は、「誰のものでもない誰か」との距離感を見誤った。私は対象を「無関係な何か」ではなく「私を否定しない何か」だと思い違いをしていたのだ。大変恥ずかしい話だが。

 

「誰のものでもない誰か」なんて本当はこの世に存在しない。それが実在の人間ならそれはやっぱり「誰かの何か」なのだ。二次元のキャラクターだって「作者の創作物」である以上「誰かの何か」だ。「誰かの何か」は「誰か」との関係を持つから、選択をする。ゆえに否定もする。

「誰のものでもない誰か」とは、自分がたとえ相手にとって何者でもないけれど一方通行でいいから関係を持ちたい時の、観測者が自分自身にかける魔法の呪文だ。

それを逆手に取った商売がこの世にあることは事実だと思う。けれど約款や契約書で、締結から十年はこの商品は「誰のものでもない誰か」でい続けますと誓ってくれるものなど何一つとしてないだろう。

そして自分が自分でかけた魔法を忘れて距離を見誤って詰め過ぎると、いきなり透明なガラスの板に顔面を強かにぶつける羽目になる。ないと思い込んでいた、最初からあった結界に驚き、そして知らない間に「否定されることはない」と思い込んでいた自分がどこまでも対象と無関係であることを思い出し、その惨めさに耐えられず八つ当たりで怒って喚いて怯えて吠えるのだ。

 

それを自覚し始めてから、私はすごく目をこらしながら距離を詰めることにしている。そして少しでも透明なガラスのきらめきを見ようものなら、スッと90度方向を曲げ、他所に向かって歩いて行くことにしている。

これを「私の上司」や「私の家族」「私の友達」「私の恋人」にやったら、いつまでも衝突を逃げる人になり、ろくな人間関係を構築できないだろう。(※圧倒的に話の通じない人にはこの限りではないと思う)

でも、「誰のものでもない誰か」との関係はそうではない。だってそれは最初から「ない」のだから。だから「自分にふさわしくない」と思ったら無言で切っていい。無視していい。ミュートすればいいしフォローを外せばいいし購読をやめればいいし買ったグッズは処分すればいい。

その代わりまた気が向いたり「お、私にふさわしくなってきたな」と思ったらミュートを外してフォローし直し、購読し直してこれまですっ飛ばしてしまった部分は気が向いたら買い直したり借りたりして補填し、処分したグッズを買い直してもいい。

無関係だからこその、無責任で流動的な関係が「誰のものでもない誰か」とは許される。だから変に疲れる必要はなくて、疲れないようにメリットだけうまく活用して上手に付き合えばいいという話なのだろう。

かつて王土ショックの時に「大丈夫?何があったの?」っと友達に心配されるほど様子がおかしくなっていた時代、あの頃SNSはここまで盛んではなかったように思う。あれは本当に救われた。もしあの時代に作品の公式アカウントでもあろうものなら、当時の私がどこまで正常であれたかがもう定かではないが手段として「公式にリプライする」みたいなことができたわけだ。

公式に凸する話は度々聞き、いやそれはやばいだろと思っていた私だが、 この結界が見えず距離を見誤ったまま感情に流されると、なるほどそう言う行動に出かねないというのは(良し悪しはおいておいて)理解できる。

SNSが発達し容易に一見したところの関係を誰とでも形成できるこの時代、無関係な誰かを「誰のものでもない誰か」を通り越して「私を否定しない誰か」と見誤るとそういう衝突事故が起きるのだろう。

全然他人事ではないと思いつつ、バットマンを読みながらふとそんなことを思い出した。私が好きなのは今の所ジェイソン・トッドバットマンである。全部ニンジャバットマンのコミカライズのせいだ。ぜひ読んでほしい。

ニンジャバットマン 上巻 (ヒーローズコミックス)

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