140字以上メモ

n史郎がツイッター字数制限以上のつぶやきをしたいときの置き場です。

ソーシャルボンド理論から見る桜木花道と水戸洋平について

はじめに

この記事では、スラムダンク水戸洋平の名台詞の一つ、

「いや…そうじゃねえ……バスケット選手になっちまったのさ…」

出典:SLAM DUNK 新装再編版 19 (愛蔵版コミックス) #260 借りは即返さねばならない 

を取り上げる。

上記のセリフは、vs山王戦において、試合中に暴れず耐えた桜木花道の様子を「大人になった」と表現する桜木軍団を水戸洋平が訂正し、言い直したものだ。

話の流れからしても、この言い直しは何の違和感も生んでおらず、その味わい深さをわざわざ再考する必要もないと思うのだが、では

・「大人になった」のではなく、「バスケット選手になっちまった」とはどういうことか?

・洋平がわざわざ言い直した時の心情とはどういったものか?

と問われて回答できるか?と言われると、難しいぞ?となったのである。

これに答えるためにはソーシャルボンド理論をヒントに深堀っていくと良いのではないか?と思いつき、その思考の軌跡を記載していく。

 

ソーシャルボンド理論とは?

ソーシャルボンド理論とは、ハーシ(Hirschi, 1969)が提唱したもので、「人はなぜ犯罪を犯さないのか?」という性悪説的な立場から犯罪に向き合っている。この理論では、人が犯罪を起こさないのは社会的絆(ソーシャルボンド)があるからだとしている。その社会的絆とは、以下の4つに分類できる。

• 愛着・・・attachment 身近な親しい人への愛情や敬愛

• 投資・・・commitment これまで自分が積み上げてきた地位や実績

• 巻き込み・・・involvement 自分の活動が忙しく犯罪に走る余裕がない

• 信念・・・belief 社会のルールや法律を守るべきという信念

逆にいうと、この4つの絆が切れてしまうと人は誰しも犯罪を犯す、ということである。この理論を軸に、桜木花道という男を見ていきたい。

 

ソーシャルボンドが皆無の男・桜木花道

結論から言うと、バスケットボールを始める前の桜木花道はソーシャルボンドが皆無である。なにせ、スラムダンクとは不良少年の桜木花道がバスケをする漫画だ。前提として彼は不良であり、不良=非行に走っている=絆が切れている、と見るべきだ。

「信念」と「巻き込み」が切れていることは非常にわかりやすい。彼が不良まっしぐらな時点でこの二つは確実にないと言っていい。(「非行に走ってはいけない」と思えるなら不良をやっていないし、不良をやっている時点で時間を持て余している)

「投資」についてもそうで、ここは花道が後先全く考えず50人に告白しまくったり、(いくら流川が晴子に冷たい反応を見せたからといって)完全なる逆恨みで流川を殴り飛ばしたりする短絡加減からも明白である。

なぜ彼がここまで短慮に振る舞えるかというと、配慮すべき何かが彼の中に全くないからだ。要は、花道は失うことを恐れるほどの社会的な功績や実績、あるいは立場を全く有していないのである。

残るは「愛着」だが、これも花道は切れていることが窺える。明確ではないものの、花道は家族が不在ではないか?と思える描写が原作には見られる。(父親が倒れた描写から父との死別を想起させるし、作中群を抜くほど女性に不慣れな様子から母親も不在ではないかと予感させる。)

恋人も、恋人候補になりそうな幼馴染の相手もいないので、その子を悲しませたくないという絆もない。

花道が暴れて悲しんだり困ったりする、花道にとっての親しい人はいない。だから花道は暴れる自分を止める理由を持たない。こういうわけである。

 

と結論づけようとして、いやまてよ?と言いたくなる。信念、巻き込み、投資が切れているのは認めても、愛着は切れているか?だって、花道にはいるではないか、桜木軍団というなによりの花道の仲間が。中学時代からの友人である彼らがいるではないか。彼らこそが花道の「愛着」ではないのか?

だが、桜木軍団ではダメなのだ。なぜなら彼らも花道と同じ、絆の切れた少年たちだからである。

 

自分では花道と社会をつなげられないとわかっている洋平

ソーシャルボンド理論とは、いわば社会と犯罪を天秤にかけて、社会に傾いているうちは罪を犯さないというものだ。社会との絆が人質状態なのである。

であるなら、「愛着」における「親しい人」とは、犯罪を犯したり非行に走ったりすることで「切れてしまう」誰かでなくてはならない。

その条件で行くと、桜木軍団は全くその「誰か」にはなり得ない。なぜなら、彼らは花道と一緒に非行に走る少年たちだからだ。軍団も花道と同じ、社会とつながれない、ソーシャルボンドの切れている少年たちなのである。

むしろ、花道は非行を通して彼らとつながっている。彼らとつながっていることは、社会と切れていることの証と言っていい。

 

その事実を軍団の中で誰より明確に理解していたのが、水戸洋平なのだと思う。彼が、花道と社会の接続を誰より願っていたのは明白だ。バスケを続けるように直接・間接問わずお膳立てし、三井襲撃事件絡みで自己犠牲を厭わない活躍を見せたことからも、彼の献身的な姿勢が読み取れる。

こうしてみると、洋平が花道と晴子の中を取り持つように動いていた理由にも説明がつく。というのも、花道が晴子に一目惚れした際、洋平は最初引き止めているのだ。魅力的な彼女にはきっと男がいるので、花道がフラれて傷つくのは見えている、と。彼氏こそいなかったものの、晴子が流川にゾッコンで、花道に脈はないということは物語開始早々、明らかになったわけだ。

そんな洋平が、憎いくらいのさりげなさで、花道の好感度が上がるよう晴子にアピールするのはなぜか?親友の恋を応援したいから?多分、それだけではない。

それは、例えくっつかなかったとしても、晴子なら花道の「愛着」になり得るとわかっていたからだ。花道の「愛着」になること、それは、社会と切れた生き方をしてきた自分には絶対に果たせない役目だと洋平はわかっている

偶然の産物とはいえ、社会とか細い糸でつながろうとしている親友が目の前にいる。その時、洋平が下した決断とは、親友が気づかないうちに糸を切って引き摺り下ろし、断絶したものたちの集まりの中で連むことではなかった。

なんとかしてそいつと社会の間のか細い糸を確かなものにして、二度と社会と切れないように、二度と「切れてしまってもいい」などと思わないように、そのために自分がやれることをやるという、そういうものだったのではないかと思う。

たとえ親友と自分はつながれず、親友が社会とつながった途端、自分が遺される側になるとわかっていても、だ。

 

バスケを介して社会とつながる桜木花道

洋平の努力の甲斐があったのか、それとも彼の助力なしでも花道はそうなる運命なのか、それはもはや誰にも分からない話であるが、花道は見事に社会とつながった。花道と社会をつなげたもの、それはバスケである。

ここで、ソーシャルボンドの四つの絆を振り返りたい。最終話時点での花道は、どうなっているだろう?

• 愛着・・・attachment 湘北バスケ部の面々や晴子を尊重したい、裏切りたくない

• 投資・・・commitment 自分がバスケに費やした4ヶ月、ひいてはバスケそのものを失いたくない

• 巻き込み・・・involvement 部活一筋、バスケで忙しい

• 信念・・・belief ?(ギリギリ、バスケに誠実でありたい、くらいのレベルはあるかも

少なくとも、愛着、投資、巻き込みの面では、絆が出来上がっているはずだ。

こうしてみると、背中の怪我のせいで選手生命が絶たれることに危機感を覚えた花道の気持ちもよくわかる。花道は無意識のうちに、バスケを失うこと=バスケを接点につながった社会を失うこと、というのを理解していたのではないだろうか?

おそらくスラムダンク読者の中で「ついこの間まで不良で、たった半年未満続いた部活にそこまでマジになるなんて……」と思う人はいないだろうが、花道にとってのバスケはただのスポーツや部活を超越している。花道にとってのそれらは、一度社会と断絶してしまった自分をもう一度社会とつないでくれる命綱なのだ。

あるいは、スポーツや部活はただの運動や学校活動を越えて、そういう「切れてしまった人々」をつなぎ直す力がある。スラムダンクはそういうことを教えてくれる一面もあるのではないだろうか。

 

「大人になった」のではなく「バスケット選手になった」とは?

では、いよいよ最初の問題提起に移る。

なぜ水戸洋平は、自身の怒りを抑えた桜木花道の判断を「大人になったから」ではなく「バスケット選手になったから」と訂正したのか?

それは、「我慢を覚える」などといった、”遅すぎた第一反抗期の卒業”では説明として不適だと、水戸洋平はわかっているからだ。

時間経過が解決するはずものがようやくアイツにも訪れた、というのでは説明がつかないことが、今、まさに花道に、起きている。それは、バスケットボールを通じて桜木花道は社会とつながった、ということだ。言うなれば、桜木軍団の誰よりも真っ先に大人になったのが花道なのだ。その偉大な功績を、未だ社会と繋がれていない自分達が「大人になった」などと言えるはずがないと、そういうことなのではないかと思う。

社会と断絶した不良の桜木花道はどこにもいない。ここにいるのは、社会のど真ん中で真剣にボールを追いかけ回すバスケット選手の桜木花道である。

水戸洋平が言いたかったのは、きっとそういうことだ。

 

自分が必死で社会とつなげようとした男が、今まさに社会とつながり、ここにいる。それは社会と切れっぱなしの自分達との断絶を意味する。それでも構わないと思ってここまでやってきたはずで、そうまでしてでも見たかった景色がこれだと、洋平は自分で決めたはずだ。

実際そうなってしまった有様を目の当たりにした時の、確かに湧き上がる寂しさをきちんと認めて逃げずに向き合うために、水戸洋平はあえて訂正し、自分に聞かせるようにそう言った。それがあの表情の理由ではないかと思う。

 

余談:「自分の何か、みつかるといいな」とは?

スラムダンク原作完結後の10日後を描いた「あれから10日後」の桜木軍団の「自分の何か、みつかるといいな」も、ソーシャルボンド理論を通して見ることができる。

これは決して、「花道のように、自分が主役になる何かを見つけるべき」とか「応援する側ではなくプレイヤーになれ」と言う意味ではないと思っている。

これはまさしく、「社会とつながるための、自分にとっての何かを見つけよう」ということなのだと思う。花道が一抜けしてしまった中で、残された不良少年である軍団4人も、きっとこの後社会とつながれるであろう、という明るい未来への予感なのだと思う。

もちろん、花道のように自分が主人公になれる何かを通じてでもいい。恋人を作ってもいいし、仕事を始めるでもいいし、それはなんでもいい。

そして、忘れてはいけない。桜木花道は先に社会とつながっている。だから、桜木花道とつながることで、桜木花道を通して社会とつながれるのだ。

 

「花道に顔向けできないような真似は、できない」

 

その理由一つで、今度は社会とつながれる。お互いがお互いの「愛着」にはなれなかったはずの軍団は、桜木花道を起点に社会とつながれるようになった。

そして、まさに全員が「そう」だからこそ、最後に「自分の何か、みつかるといいな」というセリフが出たのではないか?

きっと水戸洋平は、花道のためとはいえ、汚れ役を買って出ることはできなくなるだろう。なぜなら、彼もきっちり社会とつながるはずだから。それに失望したり幻滅したりする花道は、絶対にいない。だって、彼もきっちり社会とつながっているから。

社会とつながることで、みんなとつながれる。そういう新しい絆にシフトする軍団を、桜木花道水戸洋平を、期待せずにはいられない終わり方だったと思う。

”他者とのつながり”を背負う赤城というキャラクターについて

毎月毎月ジャンプSQ.を買っていたのになぜか読んでいなかった怪物事変をようやく読んで、主に赤城さんに全て持って行かれてしまったので感想文を書こうと思う。

基本、SQ.本誌に掲載の話を読んでいるが、たまに歯抜けの月があってそれを補うために一部コミックスを買った上にコミックスにしか取り上げられていない情報にも触れて記事を書いたので、該当の単行本のリンクを貼っておく。

※怪物事変59話までのネタバレを含みます

 

 

赤城さんの”本当の”望みはなんだったのか?

赤城さんは狐であり、飯生の命に従って行動する。これは忠誠心起因ではなく「”望み”を叶えてもらえる」という報酬起因である。

今のところ、これはほぼ全ての狐に言えることだ。つまり、飯生派の狐にとって"望み"は相当のウエイトを占めていると言って良い。

さて、その赤城さんの”望み”であるが、これはさまざまなキャラクターから繰り返し言及されている。本人のセリフ曰く、以下の通りである。

「……50㎢以上の生き物のいないAIで管理された街を希望します」

怪物事変 41.大切な人 ジャンプSQ. 2020年5月号

どういうことかというと、赤城さんは潔癖症持ちなのだ。単行本10巻の怪物辞典③では以下のように説明されている。

赤城の場合は、自分以外の生き物すべてと、それらが触れたものが苦手です。赤城にとって、街は常に脂臭くて、呼吸するのも嫌なほどです。

怪物事変 怪物辞典③ 単行本10巻

したがって、赤城さんにとってこの世界は地獄の真っ只中なのだ。綺麗好きとか几帳面とかそういう次元の話ではなく、有象無象の生き物がひしめく雑多な世界に適応し生きていくことが赤城さんにとっては著しく難しい。

エラ呼吸の生き物で構成された海の中で、それでも生きろと強いられている肺呼吸の生き物、それが赤城さんというキャラクターなのだと思う。

赤城さんの"望み"と彼が抱える”病”(赤城さんが自分の潔癖症を"病"と呼称しているのでこのブログではそう扱っていく)を掛け合わせると、赤城さんの"本当の望み"とは

・生きやすさ

であることがうかがえる。

つまり、赤城さんが表向き唱える「50㎢以上の生き物のいないAIで管理された街」という望みは、望みであって望みでない。これは目的ではなく手段である。

赤城さんの本当の望みとは”生きやすい”ことであり、赤城さんの経験と想像力を持ってして考えつく"生きやすさ”の具体例が"「50㎢以上の生き物のいないAIで管理された街」で暮らすこと”に過ぎない。

そして赤城さんは、この

・本当の望み≠手段=「50㎢以上の生き物のいないAIで管理された街

の構図に自覚的でない。どういうことかというと、

・「50㎢以上の生き物のいないAIで管理された街」に住む以外にも赤城さんにとって生きやすい方法はあるし、なんだったら赤城さんの望む生きやすさは「50㎢以上の生き物のいないAIで管理された街」に住むこととは別のところにあるかもしれない

という可能性を考慮できていない。少なくとも41話の回想シーンの時点では理解できていない。

しかし、彼はそれに気づく。花楓くんという存在を介して、赤城さんはそれに気づいていくのだ。

赤城さんは、AIで管理された街などという諦念的な方法を使わずとも、”汚れ”に脅かされない世界を手に入れる術を知ることになる。

 

浄化の炎が赤城さんにもたらしたもの

赤城さんの潔癖症は、自分以外の全てに苦痛を感じるレベルのものではあるが、これに対処する方法が一つだけある。これは赤城さんの潔癖症について触れられた怪物辞典③にて記載されている。

ですが、ひとつだけ赤城のルールを浄化できるものがあります。それは「火を通すこと」です。赤城の持たない、炎の力なのです。

怪物事変 怪物辞典③ 単行本10巻

この炎が赤城さんの病において「抜け道」的な役割を果たすことは初登場のバーベキューでも伺えるわけだが、特に花楓くんの炎は「抜け道」を越えて「絶対守護」のシンボルのような扱われ方をしている。

48話では、赤城さんが花楓くんの炎に心を奪われ、それを「不浄の炎」と称して「美しい」と評価するシーンがあるし、これ以前の話においても花楓くんの出す炎を褒める描写は度々あった。51話では、かつてライナスの毛布と称していたウェットティッシュのボトルを取り上げられても心を乱すことなく、不要だと宣言している。

赤城さんが花楓くんの炎に入れ込んでいるのは第三者からしても一目瞭然なようで、太三郎狸からは狂信っぷりを指摘されており、野火丸からは精神安定の要因であるという風に分析されている。

事実、花楓くんの炎が燃え盛る中、赤城さん本人も以下のように宣言している。

「炎の中でなら僕は――この忌まわしき病を捨て去れる!!」

怪物事変 51.裏屋島 ジャンプSQ. 2021年3月号

三者の目からしても、本人の意識でも、赤城さんにとって花楓くんの炎とは、穢れを滅し、病の呪縛から自身を解き放ち、赤城さんを弱者から強者へと底上げする何かであることは間違いなさそうだ。

 

この「火を通すこと」のルールには曖昧さがあるというか、厳密に火が通っていて滅菌されているかどうかは問題ではないと思っている。

「火を通す」とは赤城さんが患う潔癖症において唯一設けられた「明文化された隙間」であり、その隙間に物事をどう捻じ込むかは赤城さんの解釈次第なのだ。なぜなら潔癖症はウイルスvs自分のような構図のものではなく、赤城さんの中だけで完結する病だからである。

赤城さんは、この解釈の隙間に花楓くんの炎をねじ込み、さらにエスカレートさせて「炎は不潔を殲滅する」まで増強させたのではないだろうか。炎に囲まれた空間を病に脅かされない絶対守護領域とし、炎を生み出す花楓くんと一つになることで不浄を克服する術を自ら手にしたと解釈したのだと思う。

想像だが、赤城さんは自身の命を潔癖症に握られるような生き方をしてきたのではないだろうか。赤城さんが触れたいもの、行きたいところ、やりたいこと、それら全ては赤城さんの意思の篩にかけられる前に、まず潔癖症の篩にかけられている。たとえそれが赤城さんの中で完全完結する問題だったとしても、赤城さんは壮絶な不自由の中で生きてきた。

その赤城さんに自由をもたらすのが炎であり、自ら炎を生み出せない赤城さんがそれを手にする方法は花楓くんと一つになることだった。

AIで管理された街に逃げ込むなどという疎開をせずとも、赤城さん自身が自分を苛む全てを焼き払って自由を勝ち取ればいい。その選択肢を赤城さんが得るためには花楓くんが必要だった。

多分これは間違ってはいない。けれど、少し腑に落ちないところがある。

もし赤城さんの目的が”生きやすさ”であって、その”生きやすさ”の獲得方法を疎開ではなく開墾に切り替え、もっというのなら己の生殺与奪を病ではなく己の意思で決めることが望みだったとして、であるならそこに必要なのは花楓くんではなく花楓くんの炎だっただろう。

そこに花楓くんという存在は不要であったし、火之迦具土は双頭の狐である必要はなかった。花楓くんの炎の力だけを取り込んだ単一の個体の姿であってもよかっただろう。

どういうことかというと、

  • 火之迦具土あえて双頭の姿をしていた
  • そこに宿る意味とは”一体化”や”完全性”ではななく”相補”なのではないか?

ということだ。

赤城さんというキャラクターが「己の不自由を克服するために他人を消費する者」であり、花楓くんが「粗暴で無知で他人にいいように利用され搾取される者」であったなら、火之迦具土の頭は一つであったと思う。

あの頭が二つであったということは、あれは赤城さんが花楓くんを利用した結果でもなければ、赤城さんが花楓くんの炎の虜になって取り込まれた姿でもないのだと思う。

火之迦具土とは、赤城さんにとって唯一許された”他者と繋がり一つになる方法”であり”他者と繋がり一つになった姿”ではないかと思っている。

ここから何が言えるのか?つまり赤城さんとは”他者とのつながり”という要素を背負うキャラクターではないか?ということだ。

 

他者と関わりたい赤城さん

赤城さんの興味深いポイントは、重度の潔癖症持ちであるにもかかわらず他者と接点を持つことを諦めない点だ。

赤城さんが飯生の下に就くまでの期間の回想にて、社会に溶け込んで生きることをやめなかったり薬物治療を試みたりする描写がある。*1

また、彼は花楓くんとの相棒関係の維持継続および深化についての努力も全く手を抜かない。

たとえ赤城さんが潔癖症を患っていなくとも、あの性格で花楓くんのような天真爛漫の極致みたいな男と共に行動することは相当キツいと思うのだが、それでも彼はその努力を怠らなかった。赤城さん的表現を使うのであれば、赤城さんは確実に花楓くんに「興味があった」。

それは赤城さんの言動の端端から感じられる。以下にまとめてみた。

  • 花楓くんの理解を優先し、自分の言語表現を花楓くんが理解できるレベルまで落とし、必要であれば図解を厭わず、かつ理解が追いついているかの確認を行う。
  • 花楓くんが単純な男とはいえ、彼がどういった性質の人間であるかを理解するために彼の言動を気にかけ、そこから推察を試みている(そして概ね当たっている)。
  • 他言無用の秘密の作戦を練るためとはいえ、花楓くんのような粗野な男を自宅に上げている。(単行本8巻の花楓くんのプロフィールを見るに、一定の頻度で自宅に突撃されている)

ここからわかるのは、赤城さんは潔癖症という病を患ってはいるものの、その病のことさえ棚にあげれば他者と関わることに興味関心があるのではないか?ということだ。

赤城さんは一見すると孤高を愛する男のように見えるが、花楓くん向けの言い換え表現や確認行為、関係解消を花楓くんから一方的に告げられた後での埠頭での悶着からすると、恐らく相互理解を望んでおり、その相互理解にある種の憧れを抱いている一面がある

このことは、赤城さんが花楓くんに対し、自分たちの敗北の原因を以下のように説いている場面からもうかがえる。

「もうひとつは君が僕に興味がないからです」

「君は相棒(ぼく)能力(こと)を何も知らない。夏羽クンたちは子供でしたが強い絆で繋がっていた。僕たちは彼らの連携に負けたんです」

怪物事変 36.悪癖 ジャンプSQ. 2019年12月号

私はこの赤城さんの言い分に対して、「”夏羽たちの連携プレーに負けた”のは本当であっても、"花楓くんの赤城さんに対する理解が乏しかったせいで負けた"のは本当ではない」と感じた。

赤城さんと花楓くんが負けた理由ははっきりしていて、環ちゃん+流結石が参戦したことで夏羽陣営たちの攻撃量が「花楓くん+赤城さんの視覚支援」の対処能力を越えたからだ。3対2で普通に物量戦で負けていて、足し算引き算の原理で説明がつく敗因だったと思う。あの戦況を振り返って「増援があれば勝てていた」ではなく「連携できていれば勝っていた」と言う赤城さんには合理性を感じられない。そのセリフが出て良いのは、予定していた連携技が決まっていれば勝てていたという算段がある場合だけであり、そしてそんな技は八ツ首村の戦いの時点で赤城さんと花楓くんの間にはなかったはずである。

したがって、言えるのは一つで、赤城さんは連携に憧れてしまったのだと思う。夏羽たちの連携を見て、他者と繋がって掛け算で力を増幅させるという"夢"を赤城さんは見てしまった。そして、赤城さんはそれを花楓くんと成したかった。

だからこそ赤城さんは花楓くんからの一方的な関係解消宣言に憤ったし、こじつけの理論で花楓くんから自分への理解の浅さを責めたし、相互理解を深めることで連携することが強さなのだともっともらしく説いた。赤城さんがそれを自覚していたとは思わない。赤城さんは埠頭での悶着の時点で本当に自分たちの敗因を「連携不足」だと思っていたし、「連携すれば勝てる」と信じていたし、そのロジックの合理性を疑わなかった。

こうした赤城さんの言動から、彼にとっての真の生きやすさの形が見えてくる。それは、決して無人で無機質な空間で一人で生きていくことではない。赤城さんが求めているのは

・他者と繋がり、関わること

に他ならない。それを、赤城さんが患う潔癖症が阻害している。最も望んでいる社会的な生き物が抱く普遍的な願いを手にするために、他者にはそうそう理解されない自分にとって許容し難い苦痛を耐え続けなければならない。それが赤城さんの状況で、赤城さんの地獄だ。

赤城さんはこの状況に自覚的でないから、雑多すぎる世界からの離脱が全てを解決すると思っており、だからこそ「50㎢以上の生き物のいないAIで管理された街」を望み、孤独を選ぼうとした。赤城さん的にそれは「逃げ」ではなく「勝ち抜け」のようなものだったのだと思う。赤城さんはその勝ち抜けを信じていたから、社会的なポジションを捨てて飯生の下に就いたのだ。

そうして深層に埋められ30年間誰にも気づかれなかったはずの赤城さんの根源的な願いは、花楓くんが生み出す美しい炎によって揺さぶられ、知らずのうちに芽吹き、そしてそれは火之迦具土という姿を経て果たされる。

火之迦具土と成った赤城さんは、相対する夏羽に以下のように告げている。

「君のような子供に敗北しなければ僕は 他人に歩み寄ろうなんて生涯思わなかったでしょう」

「一人でよかった 孤高でよかったのに 飯生さまあの女の力を借りずとも欲しかったものを手に入れた」

「安らぎですよ この世にこんな幸福があるとは……知らなかったな…」

怪物事変 52.突入 ジャンプSQ. 2021年4月号

生きづらさに苛まれてきた赤城さんに安らぎを与えたのは、炎であって炎でない。一人ではなく、孤高ではなく、他人に歩み寄って自分の力で手に入れた本当に欲しかったもの。

本当に欲しかったのは、自分を苦しめる要因を排除した世界ではない。自分を苦しめる要因を排除する力でもない。苦しみに塞がれ諦めてきた、他人と繋がり関わること。その具現化が火之迦具土であり、その連れ合いが花楓くんだった。

花楓くんの炎は、赤城さんの病の「抜け道」を切り開くきっかけにすぎない。赤城さんが本当に欲しかったのは他者であり、花楓くんとの関わりだったのではないだろうか。

 

赤城さんが遺したもの

念願叶って他者との深い関わりを持てた赤城さんは、では主人公たちに勝てたのかというと、当然ながらそうはならなかった。その理由を「主人公補正」とか「でないとストーリーが成り立たない」で片付けるのは野暮だろう。

悪役の魅力とは「負けること=否定されることで意味を成す」という性質であるから、だからこそ負け方に着目しなければならない。

 

連携の力をもってして夏羽たちを倒さんとした赤城さんと花楓くんだが、そんな彼らはさらなる連携を前に圧倒されていく。しまいには花楓くんは織と晶の連携技によって目を潰され、合体しまくった夏羽のパンチで火之迦具土は引き裂かれそうなほどのダメージを負う。

ここからの赤城さんのブチ切れ方は壮絶だ。彼のセリフを字義通り受け取るなら、炎の神たる自身らに歯向かっている事実自体に憤り、炎である自身らの敵=汚物とみなして相手を罵っている。ただ、これを字義通り受け取るのは少し違う気がしている。大仰なセリフの裏で、赤城さんは何に怒り、何を否定しようとしたのか?

それは、他者と繋がり一つになった自分を、それを上回る団結の力で倒されるという構図への反発なのではないかと私は思った。主人公たちや屋島の人たちは、自分たちを侵略し脅かす敵に対して抵抗しているので赤城さんの思考回路など知ったことではないのだが、赤城さんからすれば夏羽たちの攻撃とは、他者と繋がり一つになって、やっとみつけた自分だけの安らぎそのものを否定され剥奪されることと等しかったのだと思う。

だからこそ赤城さんは主人公たちを”汚物”と罵ったのではないだろうか。病の絶対ルール下で生きるしかない赤城さんにしてみれば、彼を苛み苦しめてきたのはいつだって”汚物”だった。そのルール下でやっと手にいれた繋がりを、そんな苦しみなど知らない無数の人間の繋がりが絶とうとしている。その意味に赤城さんはなにより憤ったし、きっと恐れた。

 

結局、抵抗虚しく火之迦具土は裏屋島の人々の団結によって倒される。あれだけ己の守護とあやかってきた炎に焼き尽くされながら、赤城さんが案じるのは花楓くんのことだった。

赤城さんは最後の最後まで、炎と風の関係に擬えながら、花楓くんに詫び、説いた。自分一人では花楓くんにとって足りなかったこと。花楓くんにはもっと数多くの繋がりが必要なこと。花楓くんにはより強い誰かとの繋がりが必要なこと。花楓くんとの繋がりによって安らぎを覚えた赤城さんだからこそ言えたことではないだろうか。繋がりの力を認めた赤城さんだからこそ、わかったのではないだろうか。

一人ぼっちはもちろん、二人ぼっちでもどうにもならないことが世界には山ほどある。それをどうにかするために人は繋がる。その繋がりの連鎖が仲間であり、共同体であり、ひいては社会であり、飯生に就くまではなんとか赤城さんが接点を保とうと努めてきたもので、つい最近までは諦めていたもので、自分たちを倒したもの。それを恨むでもなく、憎むでもなく、赤城さんが思ったのは、それが花楓くんには必要だということだった。

赤城さんは、あくまで繋がりの力を否定はしなかった。繋がり、結ばれ、誰かとともに在り、助け合い補い合うこと、それそのものは何も間違っていない。だた、自分一人の力では花楓くんを支え切れなかった。自分と花楓くんの繋がりだけでは弱かった。赤城さんはそれを認め、花楓くんを案じ、背中を押そうとしたのではないかと思う。

だからこそ赤城さんは、繋がりを赤城さんにもたらした炎を、火之迦具土を、花楓くんとの関わりを、赤城さんだけの安らぎを、『もうしない』という言葉で否定はしたくなかった。赤城さんはそれを「嘘でも言いたくない」と言った。

しかし、あえて『敗けました』を告げたのだ。より広く深いつながりの力で倒されたことを、赤城さんは肯定した。赤城さんはそれを認め、目を潰された花楓くんに聞かせるためにあえて口にしたのだと思う。

存在と存在は繋がれると身をもって知り、その繋がりに安らぎを感じた赤城さんだからこそ辿り着いた答え。赤城さんはそれを、花楓くんに伝えたかったのではないだろうか。自分が最初で最後に繋がった、安らぎを与えてくれた相手を案じて、残していく相手を思って、赤城さんはそれをどうしても伝えたかったのではないだろうか。

 

かくして、赤城というキャラクターの幕はここで降りることになる。

苦しみを避けるように孤独を選ぼうとした男は、知らずのうちに他者との関わりを望み、繋がりを覚え、そして相手の未来を案じ、燃えていった。

利害だけで手を組む繋がりを「大人の関係」と称し、自分を含めた狐一同を「自分のことしか考えていない」とみなした狐は、誰より繋がりに安らぎを感じ、覚えたての慈しみを遺して逝ってしまった。

 

それを花楓くんはどこまで理解しているだろう?教養がない以前に情操が未熟な花楓くんがそれを識る時、もはや赤城さんを覚えているのかもわからない。

それでも、理由もわからないまま「赤城さんみたいなニオイがするから」とウェットティッシュを欲しがり、生かされた花楓くんは、きっといつの日か識るだろう。

小さな子供は、他者を思いやることが困難だという。それはかなり高等な心理状態で、花楓くんはそれと同等か、それ以下と思われる。

そういう時は、子供の大事なものに置き換えて、例えて説いてやるといいそうだ。「お母さんが殴られたらどう思う?」と説けば、自分の大事なものを傷つけられた「もしも」を想像して、そうして他者の痛みを想像するに至るらしい。

だとすれば、赤城さんはきっと花楓くんの「大事なもの」になるのだろう。花楓くんはこれから夏羽たちと時間を共にし、赤城さんを亡くした痛みを理解して、そうして自分が傷つけた様々なものの痛みを識るのだろう。識ったその先に何が待っているのかはわからない。幸いではないだろう、きっと苦痛には違いない。識らなければよかったと悔やむことにはなるだろう。

それは、花楓くんが社会と交わるためには避けて通れない道だ。そして、それは避けずに通るべきだと赤城さんは思ったのではないだろうか。その苦痛を耐えてでも価値があると、赤城さんは感じたのだと思う。他でもない花楓くんと繋がって、きっとそう思ったのだろう。

 

赤城さんは本当に死んでいるのか?

とはいえ、赤城さんの死には謎が残されている。死体を持ち帰ろうと画策した野火丸の意図は不明だ。(野火丸の言う「赤城の置き土産」というワードも気になるところだが、これは裏屋島での戦いの一部が表の世界に知られてしまったと思われる一件を指しており、伏線としては回収済みではないかと思っている)*2

今のところは太三郎狸を討った功労者として死体が入ったトランクが飯生に差し出されたくらいしか出番がないし、そんなことのためにわざわざ死体を盗み出す形で持ち去ったとは思えない。

そもそも、赤城さんが死んでいると読者(や夏羽)が思っているのは野火丸がそう言っているからであり、夏羽は野火丸に制されて赤城さんの死体に触れずじまいだ。これで赤城さんがまた生き返るとなると大蛇や狸とさらなる軋轢が生まれそうなのでその線はあまりないとは思っているものの、このまま赤城さんの推定死体の謎が不明のままでは終わらないだろう。少なくともそう思いたい。

各陣営、それぞれの思惑を提げたまま舞台は京都へと移っていく。赤城さんに社会的な生き物としての幸いを与えた花楓くんは、獣のままであろうとするのか、あるいは苦しみながら社会と繋がるのか?

夏羽が取り組んでいくことになる花楓くんの情操教育は、物語の一つの柱となり見逃せないテーマになりそうだ。

 

*1:赤城さんのプライドの高さから推測するに、「誰かと繋がりたい」ではなく、「逃げたら負け」のような価値観があったことは想像できる。ただ、「社会との接点を断つことが負け」「誰にもできることができない自分は負け」という発想そのものが他者の存在を意識しないと存在し得ない。

なぜなら、世界に自分一人なら勝ちも負けも存在しないからだ。勝ちや負けには競うべき対象とその勝ち負けを観測する存在がいて初めて成立する概念だからである。

したがって、赤城さんは孤独であることで出家的な生きやすさは得られたかもしれないが、「望みが叶う」とはかけ離れた諦念的なものになっただろう。

*2:その置き土産によって「屋島がちょっとしたパニック状態」になっており「気を遣ってか(夏羽たちに)知らされなかった」という説明と、このSNS騒動を聞きつけた隠神が「いらん気遣いやがって」と口にしていることから推測している。

未だ唯一の人類である愛抱夢は楽園から抜け出すことはできるのか?

エスケーエイト、11話が公開された。現時点ではAbemaビデオで無料見逃し配信中である。

gxyt4.app.goo.gl

 

※配信日が少し遅れるが、AmazonPrimeでも絶賛配信中である。

#01 PART 熱い夜に雪が降る

#01 PART 熱い夜に雪が降る

  • メディア: Prime Video
 

 

さて、11話の終盤、愛抱夢はこう言う。

「僕の世界には僕しかいない」

これを聞いて、ようやく愛抱夢のモチーフが「アダム」である理由に納得いったので、メモがわりとしてこの記事を書くに至った。

つまるところ、愛抱夢のモチーフがアダムである理由は、愛抱夢が「愛」を司るキャラクターだからでもなければ、運命の相手=イヴを追い求めるキャラクターだからでもない。

それは「僕の世界には僕しかいない」という「孤独」を司るキャラクターだからなのだ。

 

運命の相手探しはアダムではなくプリンスチャーミングの十八番である

愛抱夢というキャラクターには、常々違和感を抱いていた。

というのも、彼の行動——自分にとっての運命のイヴを探し回る行動——だけを見ると、彼のやっていることはアダムというよりガラスの靴を唯一の頼りにシンデレラを探し求めるプリンスチャーミングのように思えたからだ。

アニメ9話冒頭の回想シーン、おそらくエスの走りとも思える山奥のコースで、愛抱夢はお眼鏡にかなった少年とビーフに勤しんでいる。結局この少年はコーナーで曲がり切ることができずに落下、負傷したところをチェリー及びジョーに保護されている。この行為は周囲から「スケーター潰し」と呼称されているが、当の愛抱夢本人は落下した少年には目もくれず月を見上げてこう言う。

「どこかにいないかな、僕だけのイヴが」

側からの見え方は置いておいて、愛抱夢の視点で考えるとこの「スケーター潰し」の目的は「スケーターを潰す」ことではないのは明らかである。愛抱夢はスケーターを潰して愉悦に浸る遊びに興じているわけではない。彼にはれっきとした目的があり、その目的のために行動した結果スケーターが潰れているというわけだ。外部の人間には当然愛抱夢の「目的」は見えていないので、表に出ている結果だけを指して「スケーター潰し」とみなしているのである。

では、愛抱夢の目的とはなんなのか?それは彼自身が口にしている。「イヴ探し」に他ならない。彼にとっての「イヴ」たらしめる要素がなんであるかは正確には不明だが、おそらくその条件を満たす人間を彼は探し求めている。その確認方法があのビーフであり、結果として多くのスケーターがその過程で大怪我を負う羽目になっている。これが愛抱夢視点の事実だと思う。

しかし、ここでおかしなことが起きてくる。愛抱夢のこの「イヴ探し」は聖書に登場するアダムにはない要素なのだ。この行為はどちらかというとシンデレラに登場するプリンスチャーミングの十八番のように感じる。あの危険なビーフをガラスの靴の試着と置き換えると分かりやすいと思う。

この「運命の相手探し」は世の中のほとんどの人間にとって理屈上可能であったとしても、アダムにだけは絶対にできない行動なのだ。なぜならアダムはそもそも運命の相手を探すための対象すら持ち合わせていないからだ。だってアダムはイヴが生まれる前まで、最初の人類であり「唯一の」人類なのだから。

 

アダムはイヴを見つけたのではなく神がアダムにイヴを与えたということ

そもそもアダムとはなんなんだ?という話であるが、キリスト教旧約聖書に則って

・神が地面の土(アダマ)から造った最初の人類

という理解でこのブログは進めたい。

このアダムであるが、さてどうやってイヴと出会うのか?という話だ。アダムが「最初の人類」である以上、イヴが同時にこの世界に現れたという線はないだろう。時系列的に絶対にアダムより後に誕生しているはずである。

たとえばアダムの居住圏より遥か離れたところでアダムの後に創られた二人目の人類がイヴであり、アダムの捜索行動の果て二人がついに出会ってしまった……となればこの性質は極めてエスケーエイトの愛抱夢の行動に近い。が、もちろんそうではない。なぜならイヴとは、

・「人が独りでいるのは良くないから」という理由で神がアダムの肋骨から創った人間

だからである。(実際はその前に動物を色々創るのだが、アダムと助け合える存在にはなれないということでイヴの創造に至ってる)

さて、明らかな違和感である。アダムにとってイヴが運命の相手であることは間違いない。なにせ神がアダムの孤独を案じて用意した生き物の中でもアダムの一部から創られた、アダムと最初の同種なのだ。これを運命の相手と言わずしてなんと言おう。

が、この運命こそが違和感なのだ。アダムは己の能動的な行動の結果イヴと出会ったのではない。「神が」アダムは孤独であるべきではないと判断し、「神が」陸の獣や空の鳥ではアダムの相手としては不十分だと判断し、「神が」アダムの肋骨から創り上げた人間こそがイヴなのである。イヴとは神がアダムに与えた同種だ。

アダムはイヴが創られるまでその存在を知り得ることなどなかった。自分と同じ姿形の存在がこの世界に存在し得るということすら知らなかった。当たり前だ。だって自分の骨からイヴが創られるまで、本当にこの世に人というものはアダムしかいなかったのだから。

アダムはイヴを探すことなどできなかった。アダムは最初で唯一の人類だから。こんなことは、「同種」という概念を持たないアダムにしか起きえない状況だ。だって、イヴ以降の人類は知っている。たとえその目で見たことはなかったとしても、この世界には自分の同族が存在しているということを生まれた時から知っている。イヴ以降の人間は、少なくとも人間から創られている。自分の一つ前のルーツが同種であるという確信がある。

アダムにはそれがない。神の手で土から創られたとされるアダムが存在したのなら、彼は唯一、人から生まれていない人間なのだから。

「人間」に限った話でもない。この世のありとあらゆるものには多少の違いはあれど同種と呼べるものが存在することを我々は期待する。何か真新しく画期的な製品やサービスがこの世に現れても、我々は第二第三の類似品が現れることを予想している。「最初」「パイオニア」「ベスト」そんな言葉が世の中に踊るのは、結局のところ同種や同族がこの世に溢れているからである。同じ括りの中に収まる存在、事物があるからこそ、序列をつけるという概念が生まれる。

この概念がなかったイヴ以降の人間なんてこの世にはいるはずもない。ナンバーワンよりオンリーワンなどというフレーズに我々が食いつくのは、同種の有象無象が蔓延るこの世の中に我々が疲れているからにほかならない。

だから、アダムだけなのだ。アダムだけが「僕の世界には僕しかいない」という孤独を知っている。この孤独を身をもって味わったことのある存在は、アダムしかいない。イヴ誕生以前のアダムは、本当に唯一の人類だった。比喩でもなんでもなく、その世界には人間はアダムしかいなかったのだ。同種を探すという発想があったのか疑わしいほどに独りだった。

だからなのだ。愛抱夢がプリンスチャーミングではなくアダムである理由は、ここにある。愛ではない、運命の相手でもない。本当の孤独。これこそがアダムの名前を冠する理由で、愛抱夢というキャラクターの本質だったのだ。

 

一人多役は破滅のヒントということ

アニメ1話、スノーことランガの滑りをその目に映して以降、愛抱夢は己のイヴのターゲットとして彼を見定める。そしてそれは5話の直接対決で確信的になるのだが、今になって思えば愛抱夢はかなり意味深なセリフを吐いていた。それは愛抱夢のダンススケーティングに臆するどころか食らいついて自分から仕掛けに来るスノーを受けての言葉である。

「いいね。どうやら君は僕と同じ人種らしい」

これなのだ。愛抱夢にとってのイヴとは、やはりアダムにとってのイヴであった。

同種なのだ。愛抱夢が探しているのはスケーティングが上手い人間もない。自分とのビーフについて来られる人間でもない。「自分の同種」を彼は探している。彼にとって「同種」たりえる存在とは、ランガだけなのだ。だからこそ、11話で自分に競り負けるほどの成長と機転を見せ、愛抱夢の狂ったスケーティングから逃げることなく立ち向かってそれを超えてきたレキに激昂し徹底的なまでの拒絶の姿勢を見せることはあっても、レキをイヴとすることは決してなかった。なぜならレキは愛抱夢にとって同種ではないからだ。

しかし、この「イヴ探し」の仕事は本来アダムが負う役割ではない。これは神が担うものであるし、神はイヴを探しはしない。神はイヴをアダムのためにアダムを元に創るのである。

愛抱夢は今、無茶苦茶な一人多役をこなそうとしている。愛抱夢の世界にはアダムを楽園に連れて行き、連れ合いとしてイヴを創り出す神はいない。だから愛抱夢は自分でエスという楽園を作り出し、自分だけのイヴを探そうとする。

もしかせずともそれは、神道という狭い世界に閉じ込められ、言われるがままの相手を伴侶にしなければならない彼の現実への反発なのかもしれない。彼からすれば神道の家は偽りの楽園で叔母連中は偽りの神でまだ見ぬ見合いの相手は偽りのイヴで、だからすべて自分がやってしまえと、自分の望む神がいないのなら神の役割も担ってしまえと、そういうことなのかもしれない。

これはうまくいかないだろう。なぜか?愛抱夢がアダムであるなら、愛抱夢は決して神と同じ技をなすことはできない。アダムはイヴに勧められる形で知恵の実を口にするが、そのイヴに知恵の実を勧めた蛇はこう言った。その実を口にすれば「神のように」善悪を知る者になるだろう、と。だから無理なのだ。神の力のほんの一つである善悪の識別の獲得ですら禁忌に触れ楽園から追放される存在であるアダムが、知恵の実もなしに神と同じ所業を成すのは不可能だ。

だから愛抱夢がアダムである限り、彼のイヴ探しは成功しない。彼は愛抱夢であるかぎりアダムであり、神にはなれない。そしてイヴを知る前のアダムとは未だ唯一の人類で、彼のやっていることというのはせいぜい陸の獣や空の鳥から自分の同種を探そうとすることと同義だ。イヴのいない世界でイヴを探すアダムが、愛抱夢だ。

そう、だから、きっとランガですら愛抱夢の同種ではない。愛抱夢は愛抱夢であるかぎり、彼の世界でたった一人きりなのだ。

 

神もイヴもいなくても

では、どうすればいいのだろう?神を持たない世界にたった独り取り残され、イヴのいない世界で延々とどこにもいないイヴを探し続ける愛抱夢はどうしたらいいのだろう?

その答えはたった一つだ。己が愛抱夢ではなく「愛之介」であると気づくことに他ならない。

「愛之介」はアダムではない。最初の人類でもなければ唯一の人類でもない。神からわざわざ相手をあてがわれることを待つ必要も、躍起になって探し回る必要もない。楽園の内でも外でも世界は別に等しく平和で等しく危険で、どこに行って何をしようと究極それを阻むことのできるものは己以外いないのだ。

愛之介は独りかもしれないが独りでもない。自分が独りだと思えば独りだし、そうでないと思えばそうでないのだ。だって世界は夥しいくらいの人間で溢れている。そこにつながりがあると己が思えるならコンビニの店員とだってつながっているし、逆にそこにつながりがないと己が思うのなら夫婦だって独りと独りだ。

本当の独りを知っているのは、最初の人類でイヴが創られる前までは唯一の人類だったアダムだけだ。イヴ以降の人類は、究極的には独りにはなり得ない。愛抱夢は愛之介であってアダムではなく、そして愛抱夢である必要もない。

楽園に留まり続ける必要もない。家を捨ててもいい。職を捨ててもいい。生まれ育った由緒ある土地を放棄して全く見知らぬ地に足を踏み入れてもいい。

その隣に誰かがいてもいいし誰もいなくてもいい。誰かがいて欲しいなら自分で探してその手を取ってみてもいい。取った手が振り払われるなら受け入れられるまで粘ってもいいし、諦めて他の手を探してもいい。あるいは自分の手をつかんできた誰かを受け入れてもいい。拒絶をして別の誰かに握られるのを待ってもいい。

そういう自由と可能性が、アダムではない愛之介にはあるのだと気づいた時、きっと彼の世界には初めて彼以外の何かが現れるのだろう。

 

ところで愛抱夢の世界には神もイヴもいないけれど、あるいは偽物の楽園と偽物の神と偽物のイヴ候補しかいないけれど、おかしなことに蛇だけは本物として存在する。その蛇は愛抱夢が再びスケートを愛することを望んでいる。そのきっかけは自分ではなくランガだという。自分は身を引くのでランガと滑れと愛抱夢に告げる。

この蛇は——菊池は、己がイヴになるでもなく、あるいはイヴを探し出すでもなく、アダムに直接知恵の実を授ける気だった。知恵の実を授けるというのもおかしいかもしれない。蛇の望んだことは、エスという楽園からアダムを追い出すことだ。そのために建前上過程がいるというならそれは知恵の実を授けるということで、それはアダムに恥を与えるということになる。菊池は愛抱夢を負かすことでそれを果たそうとした。

しかし、それは間違いなのだと蛇は気づいた。蛇は愛抱夢を思ってこそ楽園から追い出そうと画策していたわけだが、それではナンセンスだと気づいたのだ。それでは愛抱夢はアダムのままで、永遠に独りだから。

だから蛇はエデンから追い出すための建前として知恵の実を授けることをやめた。世界は自由で広くて意外とどうにでもなって、スケートは楽しくて、実はたったそれだけで良いと気づかせるためにイヴを差し向けた。蛇は神にもイヴにもなれない。蛇はイヴを唆すしかアダムに知恵の実を授ける術を持たない。蛇では世界の真実をアダムに伝える役割を担うことはできない。それに気づいたから菊池は辞退しランガに席を譲ったし、ランガに辞退を勧めるでもなくそのまま二人の駒を決勝に進めさせたのだ。

建前ではなく本当の願いとしての知恵の実を口にした愛抱夢は恥を覚えるでもなく神から追われるでもなく、世界の広さと同族の多さを知って自らの足でエデンから出て行けたらいい。ちっぽけな箱庭の外は想像以上に自由で、自分自身は最初でも唯一でもなく有象無象の一角に過ぎないと気づけたらいい。

彼がかつて過ごした小さな楽園の生き物たちからは想像を絶する非難を浴びせられ否定されることになるだろうし、彼が逃げ出すことを楽園の住人は認めはしないし赦しもしないし、憎み恨み唾を吐くのだろう。

ただ、そんなことどうでもよくなるほどやはり世界は広いし人は多くて、そして悲しくなるほど世界は自分を保証はしてくれない。楽園の中でも外でもそれは変わらない。だから楽しんだもの勝ちなのだ。そしてスケートは楽しい。

蛇は、愛抱夢がそれに気づくことを望んでいる。愛抱夢でもなければ神道でもない、ただただスケートは楽しいのだと無邪気に笑う男の子の顔をもう一度見たいと願っている。蛇の願いは叶のだろうか。愛抱夢は楽園を出られるのだろうか。

 

来週の最終回が楽しみである。

 

ジャド・ウィニック先生の技巧に震えろ(ロビン80周年誌ジェイソンエピソード"More Time"感想)

最初に言っておくことがある

いいからロビン80周年誌を買うんだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 電子版。運送屋さんの手を煩わせず済むのでコロナ期でも安心して読める。なんの不安もないからポチって欲しい。

何?英語が読めない?馬鹿やろ〜〜〜〜!!!!大丈夫だ〜〜〜〜〜!!google先生のちょっとおぼつかない翻訳に不安があるならDeepL先生に頼め〜〜〜〜〜〜!!!!!

https://www.deepl.com/ja/translator

もし、万一、「う〜んロビン80周年誌、なんかツイッターで見てたけどタイミング逃しちゃったし、紙の本は在庫ないみたいだし、まあいっかなって思って……」という人がいたら、いいから、買うんだ!!!!!

じゃあみなさん買って読んだよってことでいいですかね?

以下、ロビン80周年誌ジェイソンエピソード"More Time"のネタバレがあります

"More Time"とはいかに恐ろしい話なのか

"More Time"は、ロビン80周年記念誌に掲載されたジェイソン・トッドのエピソードである。初見でじっくり読まず、巻頭からパラ〜〜〜〜っと流し見をした人がいたらわかってくれると思うのだが、この話、圧倒的に「作者から与えられた情報量が少ない」のである。ディック、ティム、ステフ、ダミアン、他のロビンのエピソードはもっとセリフ・モノローグがあり、あるいはコマ数があり、あるいは一つのコマから得られる情報量が多い。一つのコマから得られる情報量が多いとは、例えば大振りのアクションがあったり、例えば書き込みがいっぱいあったりと、そういうことを指していると思って欲しい。

つまり何が言いたいかというと、"More Time"は単純に見て、読むだけでは得られる情報は少ない。ラスト3ページなど本当に顕著で、一個一個のコマも大きいしセリフもほとんどない。

が、このエピソードを読んだ人ならこれもわかってくれると思う。この話、ものすっっっっっっっっっごい重厚感があるのである。読後、「……ええ?」みたいになり10分間くらい放心してしまう。8ページだ。8ページの漫画でこのダメージを食らう。こんな効率の良すぎる攻撃の仕方もないでしょ???????ええ???????

では、である。なぜ"More Time"はここまで少ない情報量であそこまでの重厚感を演出できるのだろうか?ここ最近でここまでの技巧に触れたこともそうそうないなと思い、無粋は百も承知で自分の理解のためにも書き起こそうと思う。

 

ちなみにこの記事はバットマン歴赤ちゃんの人間が書いているので、「赤ちゃんでも狂うほど"More Time"はすごい」と思って欲しい。

 

引き算で魅せて足し算は読者に任せろ

ジェイソン・トッドは、特殊なキャラだ。

彼は「一度死んで復活したロビン」であり、リランチとかリバースとかいろいろ設定リセット的なものは起きていると思うのだが、少なくともデス・イン・ザ・ファミリーで非業の死をとげ、アンダー・ザ・レッド・フードで復活を遂げて以降、彼が持つこの要素は完全に払拭されたことはないのでは?と思っている。

彼の特殊性はこの性質にあり、彼は立っているだけでこのバックグラウンドを自分にいつでも還元できるキャラクターなのだ。そしてこのバックグラウンドは読者にとってストレートに「悲哀」の感情を想起させることができる。つまりジェイソンは特に何もしなかったとしても「悲惨な未来が待ち受けている」あるいは「悲惨な過去を経た後なのだろう」ということを明言せずとも読者に想像させる力を持ったキャラクターなのだ。

名前を出したので、英語版kindleのURLを貼っておく。

Batman: Under the Red Hood (English Edition)

Batman: Under the Red Hood (English Edition)

 

 

話を戻して、だからロビンのジェイソンがはしゃぐだけで「ああ、彼はこの後悲惨な事件が待ち受けているのに楽しいのも今だけか……」となるし、ロビンのジェイソンがブルースと喧嘩するだけで「ああ、彼はこの後ブルースと絶対的な別れを迎えてしまうのに今喧嘩しなくても……」となるし、大人のジェイソンがバールを握っているだけで我々は頭を抱えてしまうわけである。

なので、ジェイソン・トッドというキャラクターはこの悲惨なバックグラウンドを「引きずらせたくない」話ならともかく、「引きずっていて欲しい」話であればむしろその悲惨な過去を想起させる情報は盛らなくていい。そこは読者が勝手に補填する。

物語とは書き手がどんなことを思っていたとしても結局読者の感じ方一つに委ねられてしまう。その場合、実は下手に列記するよりもあえて想像の幅を持たせることが効果的な場合がある。読者がより自分が共感できるようその隙間を補填し、物語の嵩増しを勝手にやってくれることが期待できるのだ。これは俗にいう「行間を読む」というやつである。

そしてジェイソンは前述の「大抵の読者が共通認識として理解している過去」があり、その過去も多種多様な感情を想起させるというより「悲哀」という大概念に向かってそこまで寄り道することなく導いてくれるものなので、物語の書き手としても読者の行間の読み間違いによる誤解釈のリスクはあまり追わなくて良い。

具体的にいこう。"More Time"1ページ目でロビンのジェイソンはブルースに小さな小箱を渡す。「これは?」と問うブルース に「誕生日プレゼントだよ、開けて!」と無邪気な面持ちで答えている。

まず、ここが相当大変なシーンである。

ジェイソンのロビン期が短かったこと、ブルースが「これは?」と問うていることから、これはジェイソンが初めて祝ったブルースの誕生日だと推測できる。さらに、彼は誕生日プレゼントを渡す行為を指して、こう述べている。

"It's this weird tradition people have done for, like, a thousand years."

英語力雑魚四天王の一角のため全く合っている自信がないのだが、私はこれを「みんな昔からやってる、変な慣習さ」と読んだ。最初、これはジェイソンなりの皮肉というか、わざと勿体ぶって言っているものと思っていた。大抵の人は自分の誕生日を覚えていて、その日にもらったものとは誕生日プレゼントと察しがつく。それをわざわざ聞いてくるブルース に、自分の誕生日もすっかりわすれているブルースに、ふざけて馬鹿にするノリで「ブルース知らないの?誕生日にはプレゼントを渡す習慣があるんだよ、大昔からね(今日あんたの誕生日だろ?)」というニュアンスで言っていると思っていた。

多分これはそこまで外れていないと思っているし、ここでは「ジェイソンが渡したものは誕生日プレゼントである」と理解していれば十分と感じている。

が、ここで思った。ジェイソンは「何千年も前からみんなやっている習慣」として「誕生日にプレゼントを渡す・渡される行為」を指したが、果たしてジェイソン自身はどうなのだろう?

手元のデス・イン・ザ・ファミリーによれば、ジェイソンとバットマンの出会いはジェイソンが生活のためにバットモービル のタイヤを盗もうとしたところを見つかったことに始まる。ジェイソンがこの境遇に陥る前は父母はいたし、彼の旧家(といってもアパートだが)から出てきた思い出の品の中に残っている家族写真からそれなりに経済的に逼迫はしていない時期はあったと想像できるし、少なくとも小学校の成績表が出てきているので学校も一時期までは通っていたようだ。

ただ、その父も「手っ取り早く金を稼ぐために」犯罪の片棒を担いでトゥーフェイスに殺されている。ということは、一体どのあたりの時期からかは不明だが、少なくともタイヤを売って生活していた頃は当然、家族が健在だった頃も途中から経済的に困窮し、誰かの誕生日を祝い物を贈ること、あるいは誰かに誕生日を祝われ物を贈られることがジェイソンにとって「何千年も前からみんなやっている習慣」ではなくなった時期があったのでは?ということだ。

ただでさえこのチビのジェイソンにとって五ヶ月も前から計画を立ててプレゼントを用意するなんて大層な誕生日のお祝いを試みたのなんか人生初の可能性すらあるのに、そもそも「何千年も前からみんなやっている習慣」をなくしてから、取り戻して試みた初が今回の可能性だってあるのだ。

タイヤを売って生活しているひとりぼっちのジェイソンにとって、他人が昔生まれたことを祝えるほどの余裕があったとは思えない。彼が元々持っていた「生きることには直結しないけれど生きることを豊かにする思いやり」という文化は両親の不在に起因する貧困が奪ってしまった。一度手放した「誰かの生まれてきた日を自分のことのように喜んで物を贈ることで祝う」という「行為自体」を、ジェイソンはブルースで取り戻そうとした可能性があるのだ。

そしてこの話を読んでいけばわかるのだが、ジェイソンはロビン時代でこのプレゼントをブルース に渡しきることができずペンディングになる。そしてこの後彼がどうなるかは我々は知っているし、その出来事以降ブルースにとって「もらってあげることができなかった」プレゼントがどんな傷になったかは想像に難くない。

バットマンの履修度が赤ちゃんクラスの私でさえこれなのだ。バットマンをずっと追っかけてきた人ほど、この「嵩増し」はえげつないことになる。それこそ80周年記念誌なのだから。

だから、もしこのエピソードで上記のような類のことが「明記」されていたとしたら、そこでラインが引かれてしまうことになる。上限を設けることになり、物語の深み、あるいは幅は一律になってしまうのだ。

そうするべき話も当然あるし、そうしないとピンボケして言いたいことが伝わらない話もあるだろう。ただ、ジェイソン・トッドについては、彼に限って言えばだけれど、彼はこの「引き算による嵩増し」が映えるキャラクターだし、"More Time"はあえて情報量を削ることでこれに成功しているのではなかろうか?

 

バットマンの父親の形見」すら「手段」として使う大胆さを見ろ

この記事を私が書かざるを得なくなった(書かないと何かが私の中で飽和して破裂して大変なことになるので書かざるを得なくなった)原因に触れたい。

"More Time"は起承転結で書くと以下のようになる。

 

起:ゴッサムのビルとビルの狭間を飛び回るジェイソン、彼はバットマンを探していた。そんな彼はバットモービル を見つけ、ロビンだったことの自分を思い出す。

承:ロビン時代のジェイソンは、ブルースの誕生日にプレゼントを渡す。それはブルースの父、トーマスの形見である壊れた時計だった。 

転:ジェイソンのプレゼントとは、その壊れた時計を直してブルースに渡すと言う物だった。しかしブルースの誕生日までに間に合わすことができず、一旦ジェイソンはこれを持ち帰り、全て直しきった後に正式に渡すことなった。

結:時は移って、現在。バットマンバットモービル の上にいつの日か見た小箱を見つける。それは父、トーマスの時計。そんなバットマンを、ジェイソンはどこかのビルの天辺から眺めている。誕生日おめでとうブルース、そう呟いて。

 

これは私が初めて読んだときの解釈だった。だって

・ジェイソンがブルースに時を超えて(彼は理不尽な死と理不尽な復活を遂げてレッドフードとして生きているが、この理不尽な復活が彼にもたらしたチャンスを活かして)ブルース に誕生日プレゼントを贈る話

・しかもその誕生日プレゼントがブルースの父の形見を直した物であり、多分これ以上なくブルースを想った品である

この2点を把握してしまったらもうこの2点だけでお腹いっぱいになるではないか。だから私は"More Time"はこういう話なんだと思っていた。

これに疑問を感じたのは本当につい最近である。何についての疑問かと言うと「時計である必要はどこにあったのか?」という点だ。明らかに読み飛ばしてる何かがある気がする、そう思って読み返したところ、以下のとんでもないやりとりをすごくさらりと読んでいたことに気付いて腰を抜かしたのだ。

このトーマスの時計、古い時計で自動巻きだったのだ。だから身に付けていないとゼンマイが巻かれることがなく、時計が止まってしまう。ジェイソンはこれを指して、以下の通り述べる。

"It needs to be with you all time. Or needs a lot of attention when it isn't."

ロビンのジェイソンは完全に時計を指して言っている。だが「ずっと一緒にいるか、一緒にいない時はいっそう気にかけなければならない」のは果たしてこの自動巻の時計だけだろうか?

私はこの大事すぎるセリフを理解して、考え方が一新した。これなのだ。"More Time"とはこれを言うための話なのだ。

ロビンのジェイソンは自動巻きの時計の問題として、ブルースが頻繁に身に付けられない点を指している。なにせブルースはバットマンだ。夜は常に危険を伴う自警活動をしており、そんな中で父親の形見という大切な時計を四六時中つけておくことはできない。ずっと付けていたくとも、それでは時計は壊れてしまう。それはできない。ジェイソンはそれを理解している。だからこそこの時計が自動巻きであることを彼は「問題」と指したのだ。その上で「つけられない時こそ気にかけて」と言ったのである。つけられない事情はわかっているから、その分気にかけてネジを巻いてやってね、と。

これは、まるっきりブルースとジェイソンの関係そのものなのだ。

ブルースとジェイソンは(元々人間的にソリが合い辛いこともあるのかもしれないが)、「不殺」というバットマンのポリシーを巡って対立している。ヴィジランテとしての思想の違いで二人は相容れない存在となっているのだ。故にジェイソンは堂々とプレゼントを渡しに来られない。ブルース不在のバットモービルのボンネットに置くことが彼のギリギリ譲ったラインなのだ。

ブルースにとって、「大切なのに一緒にはいられない」のは、何も時計だけではないのである。ジェイソンだって「大切なのに一緒にはいられない」存在だ。それは彼を亡くしてしまった過去も、彼と決裂してしまった現在もそうだ。けれど、それでも大切なのだ。それを、ジェイソンは本当は理解しているのではないか?だからこそ「大切なのに一緒にはいられない」象徴である時計を渡したのではないのか?

あるいは、ジェイソンにとってのブルースこそが「大切なのに一緒にいられない」存在という意味でもあるのだろう。

ならどうすればいいのか?これはロビン時代のジェイソンが答えを出してくれている。

「一緒にいられないのなら、いっそう気にかけて」

こういうことなのだ、この話は。なんということなのだ、この話は。

一緒にいられないからこそいっそう気にかけるという行為は、まさにジェイソンがこの物語で体現している。

死以前、小さなロビンの頃に渡しきれなかったプレゼント。ジェイソンは復活後もこの時計をなくすことはなかった。きっとマナーのどこかに隠していたのではないだろうか?ジェイソンはこれを覚えていた。気にかけていたから。いつか回収したのだろう。そこから時間をかけて一生懸命直した。気にかけていたから。それをジェイソンはブルースに渡したのだ。「ちゃんと直せたその時に正式に渡すよ」という言葉通り。気にかけていたから。

一緒にいられる日には簡単には戻れない。けれど、一緒にいられないからこそ一層想っている。誕生日おめでとう、ブルース。

これは、こういう話だって?なんてこった。

 

話を戻そう。私が疑問に思っていた、プレゼントが時計である意味だ。こうなると見え方はガラリと変わってくる。

・この話はジェイソンからブルースへ捧げる「一緒にいられず離れ離れになればこそ、相手を想う必要がある」というメッセージの話である。

・が、ジェイソンがこれを直接ブルースに伝えるのは彼の性格や二人の置かれた境遇からしても難しい

・となると「何か」に上記の意味を托さねばならない

・また大前提としてロビン80周年誌なので、ロビンのジェイソンも絡めなければならない。

ここから

・ロビン→レッドフードと時を経ること、また上記のメッセージからして託すモノは「自動巻きの時計」が適切である

・ロビン→レッドフードと時を経てこのプレゼントが完成する必要があるので、ロビンの時に手をつけレッドフードで完成するのがふさわしい。例えば「自動巻きの時計を修理すること」はどうだろうか?この修理に時間を要していたとすれば時間経過に合理的な説明がつく

・では修理するほどの時計とはなんだ?そうだ、トーマスの形見なら納得がいくし、読者にとって「ブルースにとって大切なモノ」であるとストレスなく理解してもらえる(★)

・また、これがブルースの誕生日プレゼントだとすれば、物を贈る理由としても妥当性がある。(★)

という順序で話が組み上がったとしたら…?と想像して震えた。やばいのが、この★2つだ。

過去のプロメア (いきなり他ジャンルを突っ込んで失礼)で、情報量のダイエットのためにプロメアがエリスとアイナを姉妹にしたのでは?という考察を書いた。

m0n0sprecher.hatenablog.com

上記の★2つは、この手法と全く同じだと思っている。私はこれを勝手に自分で「自明性」と呼んでいるが、「家族は大切」「誕生日にはプレゼントをする」と言ったような、特段の説明を省いたとしても読者が納得してくれる性質を活用した手法だと思う。

ロビン記念誌は多くの話が載るので、一つの物語にそんなにページ数は割けない。しかも上述の通りこの話の主題はキャラクターがずばり対象にセリフで伝えるという明解な方法ではあらわせず、極めて繊細なやり方で表現しなければならない。となると、不要なところでいちいち説明を入れていたらピントがボケるし、かと言って説明が不足すると「え、なんでそうなるの?」と読者の集中が途切れ没入感を阻害する。

そういう時便利なのが「自明性」の強いモノだ。「トーマスの形見」と「誕生日」は相当自明性が強い。なにせバットマンは両親を悪党に殺されたトラウマから出発したヴィジランテなのだ。そのバットマン 、つまりブルースにとって父親がいかに大切な存在かなんてもはや説明不要だし、誕生日にプレゼントをするのはジェイソンが言った通り「何千年も前からみんなやっている習慣」だから尚更だ。

つまり、私が初読で感慨に浸っていた要素、以下に再掲するが、

・ジェイソンがブルースに時を超えて(彼は理不尽な死と理不尽な復活を遂げてレッドフードとして生きているが、この理不尽な復活が彼にもたらしたチャンスを活かして)ブルース に誕生日プレゼントを贈る話

・しかもその誕生日プレゼントがブルースの父の形見を直した物であり、多分これ以上なくブルースを想った品である

これはもはや、「一緒にいられないのなら、いっそう気にかけて」を読者に違和感なく感じてもらうため、ストーリーを円滑に運ぶためのギミック、手段であったということになる。

う、嘘でしょ??????私は「手段」でボロ泣きしたの??????

そうなのだ、ジャド・ウィニック先生の震えるほどの技巧はここにあるのだ。手段ですらこの深みなのだ。その先に何かあるとまさか思わず、ただふとした時に、ん?と思ってその奥を覗くと本題の深みが待っている。ええ?????これどんな多重構造?????????

バットマン履修歴が赤ちゃんの私ですらこれだ。前述の「嵩増し」技法と合わせると地球の裏側まで掘れる人がいてもおかしくない。

ねえ嘘でしょこれ8ページの漫画なんけどな…????????????

おわりに

ということで、「えっ…私って「手段」の段階でボロ泣きしてた人なんだ…」と茫然とショックを受けながら本題の深みでもボロ泣きしてしまった記念でこの記事を書いた。

こういうのは下種の勘繰りとも言えると自負しつつも下種の勘繰りは楽しくてやめられない…一口で無限に味わえるガムを自己製造できる癖なのだから…

 

バットマン歴が本当に赤ちゃんなので、バットマンとジェイソン関連でお勧めの作品があったら教えてください。

 

https://marshmallow-qa.com/m0n0sprecher?utm_medium=url_text&utm_source=promotion

プロメアを挑戦の物語と⾒ているから私の主⼈公はいつだってクレイとガロだ (考察本再録)

はじめに

2019年10月のイベントで出したクレガロ考察本の書き下ろし章の再録です。

当時この本を手に取ってくださった方々、ありがとうございました。

 

2019年10月のイベントに出るにあたって当時すでにブログ掲載済みだった記事+書き下ろし一遍で出す予定だったのですが、ちょうどその頃怒涛で製作陣インタビューがアニメ誌掲載され始めました。

この記事の中で指しているのは、このアニメ誌に掲載されていたインタビューだったはずです。どうやらまだ在庫あるみたいですね。

 

spoon.2Di vol.53 (カドカワムック 793)

 

で、これからいっぱいインタビュー出てくるなら、書いている考察がボツになるな〜もったいないな〜と色々迷って、「2019年10月までこれ待ってたらダメなやつだな」と思ってブログに掲載しました。それが以下の記事です。

 

m0n0sprecher.hatenablog.com

 

 で、考察本出すのはやめようと思っていたんですが、すでに新書フォーマットに流し込んでしまって表紙も書いていて、う〜〜んもったいないな〜〜と思い、今回再掲する一遍を書いたという流れです。

プロメア って素直に見たらどう考えてもガロとリオの話のはずなんですが、どうして私はクレイとガロにフォーカスを当ててしまったのかね…?という自己整理のための書き物でもありました。

ゴールデンウィークの暇つぶしにでも読んでもらえたら幸いです。(以下再掲部分は断定調で記載しています)

 

ところで、一つ宣伝させてください。2020年2月に出したクレガロ本、絶賛通販中です!!

https://ec.toranoana.shop/joshi/ec/item/040030813011

 

では以下からようやく再掲します。

 

 

物語とはいつだって「例え話」だ

今後のことを書く上で「まず私の考える」「物語の性質」の話をしたい。こういう思考回路の⼈間が以下のことを書いている、と踏まえていただきたいためである。

ちなみにこれは独学というか完全に個⼈の趣味趣向レベルのことで、専⾨的な学問は全く修めていない⼈間の戯⾔である。あくまで私という書き⼿のスタンスを⽰す話である。

まず、物語には⼆種類ある。フィクションとノンフィクションだ。⼀旦ノンフィクションから定義していこう。

私は、ノンフィクションとは実際にあったこと(あるいはあったとされること)を書き⼿が解釈し、書き起こしたものだと思っている。つまり、実際にあったこと⾃体はあったこと以上でも以下でもない、ということだ。例えばプロメアがノンフィクションの話なら、クレイがガロの家の前でプロメアの暴⾛を⽌めきれず発⽕してしまった理由の可能性の⼀つに「偶然」が⼊ってくることは⼗分にありえる。

現実の出来事にいちいち意味はない。現実の出来事に⾒出す意味はいつだって後付けに過ぎない。

あなたが現実で上⼿くケーキが焼けたとする。あなたはその理由を「今回は砂糖を少なめにしたから」と思っているけれど、その理由が真実であると証明するのは難しい。上⼿く焼けたケーキに対し、それが⽣成されるまでの過程を振り返り、美味しくなかったこれまでと美味しかった今回の差異を考え、⾃分が納得できるものが「砂糖の量の違い」だったからそう思うことにしただけに過ぎない。

もしかしたら調理場の気温が違ったことが理由かもしれないし、あるいは今⽇のあなたの体調が良くて物を美味しく感じることができただけかもしれないし、だから今⽇のケーキが美味しかった理由なんて誰にもわからないのだ。そもそも「美味しい」という極めて主観的な現象に理由を⾒出すこと⾃体が無理なのだ。でも⼈は理由のないことが嫌いだから、後付けで理由を探す。その後付けの理由すら⾒つからないものを、⼈は「偶然」と⾔う。だから、後付けをやめたら全てが偶然とも⾔える。

これが現実で、ノンフィクションはこの現実を書き起こしたものだ。当然、書き⼿の解釈や主観が乗るだろうが、けれどクレイがガロの家の前でプロメアの暴⾛を⽌めきれず発⽕してしまった理由として、その時家から聞こえたガロの声にクレイがイラついたことが考えられることはあったとしても、ガロにとってのクレイが恩⼈のふりをした加害者となるため、なんてことはあるはずもない。そんなこと、現実やノンフィクションではあり得ないのだ。

が、フィクションはそうではない。ノンフィクションが実際にあったこと(あるいはあ たとされること)を書き⼿が解釈し、書き起こしたものだとするなら、フィクションは何もないところから書き⼿が作るものなのだ。

だから、クレイがガロの家の前でプロメアの暴⾛を⽌めきれず発⽕してしまった理由として、ノンフィクションなら偶然が許されてもフィクションでは許されない。これは話の中での偶然・必然の話をしているわけではない。書き⼿が「クレイがガロの家を焼いた」としたなら、それは書き⼿が定めたことだから、書き⼿がそう定めたことに意味はあるし理由はあるということだ。

もっというなら、書き⼿はクレイにガロの家を「焼かせた」ので、その「焼かせた」理由に意味があるということだし、その⼀つ⼀つの意味が重なって物語はできあがるし、あるいは⼀つの物語を作るためにありとあらゆる事象に意味は⽣まれる。

これの極端にわかりやすい例が「伏線」だ。現実では伏線なんて滅多にない。靴紐が切れて外出が⼆⼗分遅れたらから列⾞事故に合わなかったとして、ノンフィクションではそれは「起きた事実」でそこに意味はない。実際に起きたある出来事とある出来事を、ありのままの時系列で表すしかない。そこに意味を⾒出してもそれは書き⼿や読み⼿の気持ちの問題で、現実世界の因果に影響を及ぼさない。

でもフィクションはそうじ ない。フィクションには全ての事象に全ての意味がある。靴紐が切れたのは後に起きる列⾞事故に「巻き込ませないため」だ。意味なく靴紐は切れない。靴紐は意味あって切れるのだ。

だから、物語はいつだって「例え話」のはずだ。靴紐が切れて列⾞事故に巻き込まれなかったガロは、その靴が誰から贈られたものかを思い起こす。それが随分前にクレイからもらったもので、みんなからボロボロなんだから捨てろと⾔われたのにずっと履き続けていたとしよう。とすれば、それは「クレイがガロを守った」ことになるし、「クレイの思いを捨てなかったガロは⽣き残った」ことになって、その世界の中で⽣きることは善という指標があるなら「クレイの思いを真意はどうあれ変にひねくれずに素直に受け⽌め捨てないガロは勝者」になる。この話は「素直なガロは祝福され、真意がどうであれクレイがガロに与えたものはガロの守護になる」という主張の「例え話」というわけだ。

ということで、プロメアがフィクションである以上その⼀挙⼿⼀投⾜全てに「意味」があると思っているし、それは何かの「例え話」だと思っているのが私だ。

プロメアが⼤ウケしているのはその「例え」の要素がかなりあるからだと思っている。⾒⽅の⾓度を変えると、そこには無数の「例え」がある。差別、異⽂化コミュニケーション、協⼒することの素晴らしさ、仕事へのプライド、価値観の⼤逆転、などなど。全ての「例え」が全員のストライクゾーンにハマる必要はない。散りばめられた無数の「例え」のうち、どれか⼀つでも⾃分にハマるものがあったとき、あなたはプロメアにハマったことになるのだから。

その中で私にヒ トしたのは、「挑戦とそれを阻むもの」という構図、そして「挑戦することの素晴らしさと阻むことの愚かしさ」という「例え」なのだ。だから私はクレイとガロに夢中だと、そういうわけなのだ。

 

クレイ・フォーサイトの「誤」の意味を無視したくない

挑戦の物語があるとき、絶対にそれを阻む⼈間がいる。プロメアでは、挑戦者がガロであるならそれを阻む⼈間はクレイだ。物語上はクレイのパルナッソス計画をガロが阻むのだけれど、本質的には逆と⾒ている。クレイのやろうとした計画は「できるとわかっていること」で、ガロが⽬指した地球のマグマの消⽕は「できる確証はないしむしろできないと思われているけれど、これができたら全てうまくいくこと」だ。クレイが遂⾏するパルナッソス計画はガロの挑戦を阻む。なぜならパルナッソスが⾶ぶとき地球が滅ぶからだ。

私は、この挑戦者構造でプロメアを⾒るのがとても好きだ。理由は単純で、この構造は「ガロが勝ったこと」はもちろん「クレイが負けたこと」に⼤きくポジティブな意味を与えてくれるからだ。

私の⽴場は「クレイは地球と⼈類の救済に対して真摯ではない」というものだ。なぜなら、私はクレイには負けるに⾄った意味があると思 ているので。⾔い換えるなら、プロメアという物語があの様な⼤団円で終わったのなら、そのエンデ ングの導き⼿であるガロが勝者であり、それを阻⽌できなかったクレイが敗者となる。そしてその場合、勝者であるガロがプロメアという物語の中での正であり、敗者であるクレイは誤なのだ。そして誤が誤であるのは「間違った何か」を有していたからで、プロメアという物語はその「間違った何か」を否定し、逆にガロが勝者たり得た「正しい何か」を肯定するための壮⼤な「例え話」だと思っているからだ。だとすればクレイ・フォーサイトは間違っているはずだ。存在そのものなのか、あの答えに⾄った過程なのか、とにかく何かが否定されてしかるべきである。だってプロメアはフィクションだから。そこには絶対に何か理由があるのだ。

なので、私は⼰のスタンスを常に「クレイ・フォーサイトは間違っていた」からブラさないようにしている。彼も頑張った、みたいな⾒⽅は私にとってはナンセンスだからだ。彼の頑張りが肯定されてしかるべきなら、私は彼があそこまでガロとリオにコテンパンにされて地球救済に全く関与されず吹き⾶ばされて終わることにはならなかったと思っている。もし彼にも肯定される要素があるのなら、例えば最後ガロとリオがガロデリオンに乗り込むまでの過程のどこかでクレイの助⼒があるとか、もっとわかりやすく三竦みで地球を救うエンディングになるべきだと思うので。

けれどそれはなかった。地球を救ったのはガロとリオだ。クレイは徹底的に阻むものの⽴場であり続けた。だとしたらそれが彼の存在する意味だし、そういう彼の有様が物語の中で⼤きな意味を持つはずである。最後までガロと和解せず、なんだか置いてけぼりになって颯爽と地球を救う少年⼆⼈にびっくりする三⼗路の男がクレイで、それがあのプロメアというフィルムで描かれた「事実」だ。無様に敗北を喫することはノンフィクションであれば無意味で無価値だろう。でもフィクションはそうじゃない。負けたことには⼤いなる意味がある。それは「誤」を提⽰するという⼤きな意味だ。それは「正」を提⽰することと表裏⼀体であるほどの⼤きな意味だ。

クレイ・フォーサイトは「誤」を提⽰するキャラクター だ。彼はそのために⽣まれ、描かれ、声を充てられ動きを得たと言っても過⾔ではない。その彼の「誤」を無視するのは彼を無視するのと同義だ。私は彼を無視したくない、絶対に。彼が良い⼈だったとかガロのことを愛していたとか、そういう妄想は⼤好物だけれど本編の彼が提⽰する「誤」を無視してその⽢い妄想に⾶びつくのは、私としてはまだ早い。彼の「誤」と向き合おうじゃないか。彼の「誤」を考えようじ ないか。彼の「誤」を⾒つけた時、それと鏡合わせの「正」を持っているのはガロ・ティモスのはずだ。クレイ・フォーサイトの「誤」を追えばガロ・ティモスの「正」を⾒つけられ、そしてこのプロメアという物語が持つ⼀つの「例え話」を⾒つけられると私は思っている。

そしてクレイ・フォーサイトの「誤」とガロ・ティモスの「正」を最も⼤きなスケールで読み取ることのできる⾒⽅が「挑戦の物語」の構図なのだ。

 

現実とフィクションはクレイとガロで交差する

私がプロメアを「挑戦の物語」と⾒始めたのは、例のアニメ誌のインタビューを読んでからだった。しかも脚本家のインタビュー部分ではない。監督のインタビュー部分でもない。⾊彩設計に関する部分について読んだ時だった。

詳しいインタビューは雑誌を読んでもらうほかないのだが、ここに書いてあったのはプロメアの⾊トレス技法についての話だ。プロメアが⾊トレスという技法を採⽤していることについては、インターネットで「プロメア・⾊トレス」で検索してもらえれば無料のニュース記事でも読むことができるので、知らない⽅がいたらそれで読んでほしい。

これとか↓

https://anime.eiga.com/news/108741/

 

アニメ誌で触れられていたのは、この⾊トレス作業がどれだけ⼤変だったかという話だった。本当にそれだけだったのだが、私は「これがプロメアだ」と、すとんと納得してしまったのだ。

⾊トレスとは、線と画の塗りを馴染ませるため、線の⾊を隣接した画の塗りに近づける技法だ。例えば、ピンク髪のアイナの頭部の線の⾊は、⿊ではなく紅⾊みたいな濃い紫だ。ぶっちゃけ、それ以上でも以下でもない。⾊トレスになったから劇的にタッチが変わるとか、⾊トレスでないから作品の価値が落ちるとか、そんなわけない。「⾊トレス」という名称がわざわざ付いているほどなので、「⾊トレス」は少数派だ。⾃分が⾒るアニメやコミックの表紙絵でもいいのでカラーのイラストを⾒てみてほしい。⼤抵線画は⿊ではないだろうか。少なくとも⼀⾊だと思う。

だって素⼈の私でもわかる。⾊トレスってわけのわからないほどめんどくさい。今回の表紙も試しに⾊トレスもどきで塗ってみたが、まあめんどくさい。相当横着した⾊トレスもどきで、もう間違えまくっているし、しかも⼈を⼆⼈しか描いていないのに、もう嫌だった。それをプロメアは映画の全編でやっている。そして、ぶっちゃけ⾊トレスはしてもしなくてもいい。多分⾊トレスをやらなくてもプロメアは素晴らしいアニメ映画だ たと思うし、⾊トレスがなくても私は何回か⾒に行っただろう。

⾊トレスは装飾品だ。ネックレスをつけていてもつけていなくても、美⼈は美⼈でブスはブスだし、その性格が良い⽅向に変わることもない。それより約束の時間に遅刻しないこと、忘れ物をしないこと、待ち合わせの場所を間違えないこと、そういうことの⽅が⼤事だ。⾃分に似合うネックレスを探すことに時間を費やして他のことがおろそかになっては意味がない。

(再掲に過去つけての補足。厳密には色トレスにすることでプロメアのあのアクション作画が成立する、という効果の波及要素はあると思っているが、ここで指しているのは「色トレスを採用しなければ成立しない作画構成は必須要件ではなく、むしろそう言う作品の方が多いし、納期に間に合わせ予定通りに映画を配給することの方が大切なので、その選択をしなかったとしてもプロメア は面白かったしヒットしたのではないか?」ということが言いたかった)

 

実際、インタビューを読む限りこの⾊トレス作業は相当過酷と⾒受けられたし、これがなかったらダイエットできた制作時間はかなりあっただろうし、というか製作陣に与えられた時間から逆算して⾊トレス技法を突っ込むことは相当無謀な試みだったようだ。

この記事を読んで、私は思った。きっとこの⾊トレス技法について「そんなことやっている場合じゃないだろう」と苦⾔を呈し阻⽌する⼈間はいたはずだ。こんなことして納期に間に合わなか たらどうするんだとか⼈的コストのことを考えているのかとか、絶対いたと思う。普通なら⾔うだろう。そしているとしたら、それが「クレイ」なのだと私は思った。そして、それでもやると決めてやりきった製作陣が「ガロ」なのだとも。

だから、気づいたのだ。プロメアは、徹底的な挑戦の物語だ。だってその制作⽅法がそもそも挑戦の極みなのだから。やれない、できない、間に合わないを跳ね除け、やれるしできるし間に合わせるを貫いて作中守りきったのが地球と全⼈類なら、現実世界ではそれは「プロメア」という作品そのものなのだ。

⾊トレスの話は私がそれに思い⾄ったきっかけだけれど、私が気づいていないし製作陣が明らかにしていない挑戦の数々はもっともっとあるはずだ。無数の、やれない、できない、間に合わない、が阻んできたはずだ。現実的じゃない、もっとやれる⽅法でやらないか、という迷いが何度もあったのではないかと思うのだ。それを全部跳ね除けて、「これじゃなきゃダメなんだ」と貫き通したのがプロメア製作陣でその結果守り通せたのが、我々がスクリーンで⽬にする「プロメア」なんだと思う。

だとすれば、である。プロメアを挑戦の物語と⾒ることは、すごく本質的ではないか?と思うのだ。製作陣が⼀切妥協せずこだわり抜いた結果、私はこの映画を⼋回⾒た。これまで同じ映画を⾒た最多回数は四回だ。倍に更新されてしまった。私個⼈のスケールだけではない。五⽉の下旬に始まった映画は上映劇場や⼀⽇の上映回数こそ制限されるが。それでもこの章を書いている九⽉下旬の今でも終わらない。スクリーンでガロはまだ⾒栄を切っている。売り上げは⼗億どころか⼗⼆億を越え、ついに4DXまで決まった。これは挑戦の勝利だ。このプロメア製作陣の挑戦は正しかったという証明が、この結果だ。そして⼤変興味深いのだが、この結果を作っているのは我々「ファン」に他ならない。

何が⾔いたいのか?つまり、プロメアという「作品」が挑戦の物語だとして、その「作品」に込められたメッセージが「挑戦の素晴らしさ」だったとして、私たちはその「ガロ・ティモスの挑戦の素晴らしさ」に感動し、震え、それ⾒たさに何度も映画館に⾜を運び作品を⾒る。⾦を落とす。そして結果的にプロメア製作陣の「現実での挑戦」を我々が肯定する、という興味深い構造になっているということだ。プロメアが挑戦の物語ならば、ガロの挑戦という「正」に魅せられた我々によって現実の製作陣の挑戦も「正」になるということなのだ。

⾃分たちを阻む無数の、やれない、できない、間に合わない、を全部はねのけて、ただ⼀つの貫きたいことをひたむきに⼀⼼に貫いた結果⽣まれたのがプロメアだ。そのプロメアで宇宙⼀の⽕消しバカだと豪語する、堕ちたパルナッソスの上で空を⾒上げながら笑うガロを⾒て、その挑戦の素晴らしさをこの⽬で⾒たいと何度も劇場に⾜を運ぶのが私たちだ。そして何度も⾜を運んだ結果が興⾏収⼊⼗⼆億で、だとすればこの度のプロメアという作品を作る上で製作陣が取り組んできた数々の挑戦は「正しかった」と証明される。この映画は挑戦という⼀点において、現実とフィクションを無限にループする。肯定のループだ。だから、だからこそクレイ・フォーサイトは負けなければならなかった。阻む者である彼は徹底的に負けなければならない。阻む者である彼に対してガロが屈したり、あるいはお互いが⼿に⼿を取って和解してしまったりしたら、それはプロメアではない。阻むものに屈せず媚びず極めて貫くからプロメアだし、だからこそあの空は素晴らしい。プロメアは挑戦の物語だし、挑戦が成功する物語でもあって、だからこそこれを⾒た全ての⼈の挑戦を応援する映画でもあれば、これを⾒た全ての挑戦を阻む者への戒めでもあると思っている。

作中、ガロとリオはクレイを批難する。クレイザーXが繰り出す技を⾒て、それをマグマの消⽕の⽅向で応⽤しないのはなぜだと問う。リオは、どうしても移住がしたいようだと⼀種の頑固さとしてクレイを批判する。ガロはくだらない野望だと⾔う。

そうなのだ。くだらない野望で合っているのだ。本当の挑戦者たちからすれば、クレイがああだこうだと否定し無理だと宣うことは全部くだらない⾔い訳にすぎない。その⾔い訳を振りかざして他⼈の挑戦を⽌める⾏為に善性はない。誰かの挑戦を⽌めるものがあるとすれば、それは同じ純度で別の⽅向を⽬指す別の挑戦のはずだ。プロメアはそれを否定しないはずだ。だってプロメアでは異なる⽅向性の⼆⼈の挑戦者のガロとリオは⼿を組み、二人は勝利した。クレイが挑戦者だったなら、きっと大団円は三竦みで迎えたはずだ。

だから、クレイは挑戦者ではなく挑戦を阻む者だったはずだ。⾃分だって挑戦者という顔をして、⾃分の物差しで全てを測り、他⼈の挑戦の邪魔をする⼈間はかなりいる。それは「悪」なのだと、挑戦しないものが挑戦者を邪魔してはならないと、でなければ⾰新や奇跡が起きる未来なんてないんだと、そういうメッセージを勝⼿に私は受け取った。その正しさは興⾏収⼊⼗⼆億という数字が証明していると思った。本質だろう。

これは「挑戦者」だけでは伝え切れないメッセージだ。それを阻む者がいて、挑戦の素晴らしさとそれを阻む愚かしさの⼆⾯構造が完成する。そのためには、ガロだけではダメだ。クレイもいないとダメだ。ガロに負け、ガロと和解せず、ガロに置いてきぼりにされて吹き⾶ばされ、何が起きたのかよくわからないまま救われた地球でぽつんと座り込むクレイがいないとダメなのだ。クレイの「誤」がガロの「正」を担保し、その「正」が我々を魅了し、そうして魅了された我々が現実の挑戦を「正」とする。現実とフィクションはクレイとガロで交差する、挑戦というその⼀つの「例え話」を超えて。

だから私はクレイとガロが好きなのだ。このプロメアという物語が挑戦の物語なのだとすれば、主⼈公はクレイとガロだ。プロメアの製作過程の例え話こそがプロメアそのものだと読み取れるのは、プロメアを挑戦の物語と⾒た時で、その時スポットライトが当たるのはクレイとガロだ。その時⼆⼈はループの起点で全ての本質で現実とフィクションが交差する地点で、カーテンコールで最後の最後に揃って中央にお出ましになるのも、私にとってはこの⼆⼈だ。

⼆⼈は徹底的に対⽴していてもいい。度し難き君らはそれでいい。それでもこれ以上の組み合わせはまたとない。それがキャラクターとしてこの世に形を成したクレイとガロの役割で、私たちはその役割が魅せてくれる意味をもうこれ以上ないほど知っているはずなのだから。

素顔を晒し合う唯一の二人について(コミックス版ニンジャバットマン感想)

 ニンジャバットマン(コミカライズ)、俺の負けだ……

さきほど書いた記事でも記載したが、映画「JOKER」の予習目的で見たダークナイトトリロジーをきっかけに今絶賛バットマンにハマり中である。

ダークナイトトリロジーを見終わり、「バットマンブルース・ウェイン、好きだ…最高…」となった後、あと映画一本くらい見る時間がちょうどその時あった。そこで、できればあまり頭を使わず心も落ち込まないバットマンが見たいと思い、ニンジャバットマンとレゴバットマンザムービーを天秤にかけ、「安心の中島かずき脚本ですからね」とニンジャバットマンを選択した。結果、めちゃめちゃ面白かった。安定の見るアトラクションだった。多分リアルタイムで見に行けたら三回は見たと思う。

さて、このニンジャバットマンを見たときの私は予備知識がダークナイトトリロジーしかなかったので、理解できるキャラクターというのがバットマン、アルフレッド、キャットウーマン、ジョーカー、トゥーフェイス、ベインだけだった。なんと言うことだろう、ロビンたちが全くわからないまま見ていたのである。

公式サイトの登場人物一覧と、さらっとwikiを読んだことでなんとなく踏まえて見たのでなんとなくそこは楽しめたのだが、ただ圧倒的に気になるキャラがいた。

 

ジェイソンである。

 

ディック、ティム、ダミアンがみんな似た感じのドミノマスク式忍者スタイルであるしバットマンも忍者だっていうのに(途中までは甲冑を着ているので外見は戦国大名だが)一人だけ虚無僧の明らかに浮いているやつがいる。なんだお前、なんでお前だけ着流しなの?しかもお前だけ銃だし。みんなヒーローだから殺しはNGなんじゃないの?ダークナイトライジングでもバットマンは銃はNGみたいなこと言ってキャットウーマンとなんやらかんやらするくだりあったよ?私知ってるかんね。お前どういう子なの?

元ネタを見ればジェイソンのヒーロー(彼の場合ヴィランなのかヒーローなのかが曖昧だが)スタイルは赤メットだし彼の武器はもともと銃なので、まあなるほど赤い虚無僧でナイスキャラデザなのだが、要は私の目に止まってしまったのだ。しかも声、石田彰だし。

 

かくして、気になるあの子・ジェイソン/レッドフードへの好奇心が止まらず色々詳しくネットの海をあさりひっくり返り慌ててロビン・イヤーワン、デス・イン・ザ・ファミリー、ハッシュ、アンダー・ザ・レッドフードあたりの邦訳版を追っかけた上で私は「こんな神漫画あっていいのかよ」と涙を流しながら一人でも多くの人類がこの漫画を読んでほしいと思ってやまない漫画がある。

 

そう、ニンジャバットマン(コミカライズ)のことだ。 

ニンジャバットマン 上巻 (ヒーローズコミックス)

ニンジャバットマン 上巻 (ヒーローズコミックス)

 
ニンジャバットマン 下巻 (ヒーローズコミックス)

ニンジャバットマン 下巻 (ヒーローズコミックス)

 

 バットマン歴が赤ちゃんどころか受精卵レベルのニワカオブニワカの私だが、もうなんというか確かできっと間違えていない予感を覚えている。

多分この世に上記二冊以上にアンダーザレッドフード以降のブルースとジェイソンの関係に向き合ってくれる公式の作品ってないのかもしれない、って。

それぐらいこの漫画二冊はすごい。映画とは起点と終点こそあっているが他はとてもいい意味でオリジナルで、映画がアクションと爽快感重視なら漫画は(もちろんキャットウーマンとハーレイの戦闘なんかは相当ゾクゾクするのでアクションも申し分ないのだが)とにかくストーリーがすごい。小学生みたいな感想だがストーリーがすごい!!情緒が完全に震えるぞハート燃え尽きるほどヒートで血液のビートを完全に刻んでいる。ネタバレをせずに紹介することがここまで難しいとは思わなかった、いつもネタバレ考察しかしていないから…

そして今回の記事では、コミカライズのニンジャバットマンに登場するロビンたち4人の中で唯一「仮面を外すことを許された」ジェイソンの素顔の要素についてクローズアップしたい。

 

※以下コミックス版のネタバレです。まだの人がいたら上記リンクからまずはポチって読んでほしい。

 

コミカライズ版にのみ存在する「素顔のジェイソン」について

コミカライズニンジャバットマンはストーリーの流れこそ映画と異なるものの、そのキャラデザは映画版にかなり忠実だ。そんな中で、唯一に近い形でオリジナル要素として存在するものがある。素顔のジェイソンだ。

厳密に言うとガリガリのゴリラグロッドとか映画には出ていないオリキャラ等もいるし、下巻のおまけではロビンの四人全員の素顔が見られる。が、それはコミカライズ版が独自のストーリーを展開させる上で必要だった要素とか、日常後日談で四人が仮面をつけるのはおかしいということで外している必然の改変であり、個人的には映画で素顔が全くわからないロビンたち四人のうち一人の素顔をオリジナルのデザインで描き(しかもそれが素顔でなければならなかった事実関係上の必然性はストーリーの展開的にはない)というのは結構勇気のある一手だったのではと思う。

※ただ、圧倒的に久先生が「うまい」と思うのが、このロビン四人の中で唯一素顔を出せそうなキャラがいるとしたらそれは一人だけデザインの浮いているジェイソンだろうし(たとえばディックだけ外したら、同じドミノマスクの他の二人はなんで外さない?みたいな違和感がどうしてもつきまとう)、ジェイソンは映画の中でもファーマーのジョーカー・ハーレイを追う中、一瞬編笠を上にあげて笠の下は口元に赤いマスクで目元にはドミノマスクがないことは確認できる。なので「ジェイソンは編笠の下に口元のマスクはしていない」という少しのオリジナル要素を足してやるだけで、ジェイソンは編笠を脱ぐだけで素顔が出せる。映画で一度もドミノマスクを外さなかったディック、ティム、ダミアンに比べれば一番素顔を晒しやすいポイントはジェイソンだ。さらに後述するが、ジェイソンが口にマスクをしてはまずい理由が戦法上存在するので大義名分もある。うますぎる。にくい演出だ。

こうまでして長々と書いてきたが、言いたいことは以下の通りだ。

つまり、コミカライズの中でジェイソンが一人だけ素顔を晒したことには大きな意味があるだろうということだ。

 

ジェイソンが素顔を晒す時について

作中ジェイソンが素顔を晒すシーンは大きく分けて2つ、上巻下巻で一回ずつである。上巻は、最初のジョーカーとの戦いにバットファミリーが破れたあと、水辺で一人狙撃の練習をする時。下巻は、デスストロークとの戦いの後から最後まで。

この二回に共通するのは、一つだ。ブルースの不殺の誓いである。ジェイソンが素顔になる時、そこに流れるテーマはブルースの不殺の誓いになる。

最初に素顔を晒すシーンでは、ジェイソンは戦国という時代でブルースの不殺の誓いを守っても無駄だと訴える。切ないのは、ジェイソンはなにもこの時代に飛んでから、最初からブルースの誓いを無意味と思って破っているわけではない。ジェイソンはジェイソンなりに、結果論だったとしても、ブルースの不殺の誓いを守っていた。それは使うことのなかった.45ACP弾で明らかになっているし、二年ブルースを待っても事態が好転しなかったことに対して「アンタに付いたのが間違いだった」と言い捨てたことにも表れている。難民キャンプについても設立に尽力していたのはこのあと判明し、つまり彼は彼なりにブルースに寄せながら二年待っていたということだ。

けれど結果ブルースたちはジョーカーに惨敗を喫することになり、21世紀から持ち込んだガジェットも全て失った。一時でも信じて寄せたやり方で失敗し、皆大怪我を負って逃げ帰ることになってしまった。

ブルースは「無関係な人足を殺させない」ために崩れ落ちる蒸気機関から彼女をかばった。それは罠であり人足の正体は擬態したハーレイだったため、手酷い攻撃を受け、隠れ里の動物使いの機転がなければトドメをさされていた始末だった。生還したものの、ダミアンに肩を貸してもらえないと歩けないほどの状態だ。

そして、炎を浴びたことでかつて自分が死んだ時のことがリフレインし我を失いディックに保護されたジェイソンは、ディックと一緒に「通信に応答しないバットマン」という状況を共有していたはずだ。

こんな状況でジェイソンの言える本音なんて、それは不殺の誓いの無意味さだけだろう。しかも、今回はこれまでとは重みが違う。

悪党は殺さず生かして捕まえるから逃げ出したそいつがまた殺しをやってキリがない。だから悪を持って悪を制すしかゴッサムに平和をもたらす方法はない。これが復活したレッドフードが最初バットマンに言った理屈だ。その後、なぜジョーカーを殺さなかったのかとブルースに迫る中で、こう言う。

ペンギンやスケアクロウリドラークレイフェイストゥーフェイスを殺せと言ってるわけじゃない。ジョーカーだけだ、ただこいつだけだ。だってこいつはあんたから俺を奪ったんだぞ?と。

その前談で、もしジョーカーがあんたのことを滅多打ちに殴りつけてあんたのことを殺すようなことになったら俺はその腐れ外道の悪魔を世界中駆けずり回ってでも見つけ出して地獄にぶち落とす、と彼は言った。それを言ったというのに、バットマンはお前はわかっていないと不殺の誓いを説く。堕ちるのは簡単だが墜ちたら二度と戻れない。けれど、ジェイソンが言いたいことはそう言うことではなかった。だから皆まで言ったのだ。

悪を持って悪を制すとかじゃない。悪人全員を殺さなきゃならないということが言いたいんじゃない。ただ、俺をボコボコに痛めつけ殺し、あんたから俺を奪ったこの男を、その理由だけで殺してはくれないのか?その理由でもあんたの不殺の誓いは破られないのか?俺にはその理由だけあればこいつを殺すのには十分すぎるくらいだ。それでも、あんたはこの男を殺せないのか?

ドミノマスクが半分割れ、ヘルメットも外れた、レッドフードではなくジェイソン・トッドはブルースに切に訴えたのだ。けれど、バットマンの答えは「すまない」だった。これが二人の不殺の誓いについての認識のズレだったはずだ。

ニンジャバットマンのジェイソンは、このやりとりがあった上で言う。この戦国の時代には法がない。時代そのものが自分たちに殺意を向ける。そんな時代に不殺を誓っても意味がない。背を向けながらも、赤い編笠も外しマスクもつけずに本当の素顔でジェイソン・トッドは訴える。このジェイソンは、痛いほど譲歩していると私は思った。かつてジェイソンは、悪を持って悪を制さなければゴッサムに平和はないと言った。そして、親しい人を酷い方法で奪われたという言い訳まであるのにそれでもジョーカーという稀代のシリアルキラーを殺せないのか?と本音をこぼした。アンダーザレッドフードでも、仮面を半分外してジェイソンは譲歩して提案している。

自分の死をもってしてもジョーカーを殺してくれないのか、なんて、こんな惨めな方法で愛を確かめようとするジェイソンだった。その上で、今回さらに譲歩した。悪党を殺せとは言わない。自分が死んだ仇を討てなかったこともいい。

ただ時代そのものが自分たちに殺意を向ける中で、21世紀のガジェットもなくして、一方でジョーカーたちは城を有しルール不問で全力で自分たちを殺しにかかってくる。それでも不殺の誓いを守って「ブルースが」死んでは意味がないだろう。だから誰より自分を守ってくれよ、たとえ誓いを破ることになったとしても。

これがジェイソンの訴えたかったことではないか、と私は思うのだ。

そしてアンダーザレッドフードではジェイソンの本音を汲めなかったバットマンは、今回は正しくジェイソンの真意を理解している。だからブルースは言う。この時代を「生きる」ための技術が存在する。それに自分たちは気づかなかった。その強さを今から学べばいい。最新のガジェットがなくても大丈夫。この身一つで自分たちはまだ戦える。

だから、また失うかもしれないなんて不安に思わなくていい。

それが、皆まで言えなかったジェイソンの本音に、皆まで言わず応えることのできたブルースのアンサーだと思う。だからこの場面のブルースは、素顔のジェイソンに次いだオリジナル要素、カソック衣装を着た素顔のブルースである必要があったのではないか。

アンダーザレッドフードでは半分素顔を晒したジェイソンとバットマンだった二人。お互いの真意がすれ違い、それに応えることができず決裂した二人。

それをもう一度やり直すシーンが、あの水辺の問答なのだと思う。そして素顔であることは本音の比喩であると同時に、当然だけれど表情を描くことを可能にする。「まだ戦える」とブルースに告げられたジェイソンの表情は、素顔でなければ知ることはできない。このジェイソンは、きっと受け取れたはずなのだ。自分が欲しかったと思ったブルースからの答えを。

 

ジェイソンだけが呼ぶ「ブルース」と、ジェイソンだけが見た「ブルース」について

ジェイソンが素顔を晒すもう一つの場面は、デスストロークを倒して以降だ。ここでの倒し方も相当オツである。なぜなら、他の三人のロビンがそれぞれ特訓の成果を披露する中、ジェイソンただ一人だけが「.45ACP弾は使わない」という特訓とは関係ない、ブルースとの約束を果たす戦いをしているのだ。そして仕込み銃と思われていた尺八を本当にそのままの使い道をもって、耳元での超ボリュームで敵を倒す「不殺」で幕を引く。なるほど、これは確かにレッドフードの戦いというより、あの水辺でブルースから応えを受け取ったジェイソン・トッドの戦いと言う方がふさわしい。だからこそジェイソンは最後編笠を脱ぐ必要があったわけだ。

これ以降ジェイソンは編笠を脱いでいるが、話の流れとしてはデスストロークに打たれたことで編笠が破損し、これ以上被っていられないから脱いだのだろう。このあと水に潜ることになるし、どのみち脱がなければならない。

が、本当の理由は当然そこじゃない。ジェイソンがデスストロークとの戦いで披露しなかった特訓の成果、つまり仕込み刀の出番があるからだ。この刀の真意を語るジェイソンが素顔じゃなくてどうするのだ?ここのためにジェイソンは素顔になることを許されたと言っても過言ではないと思う。ここは詳しく語る必要もないほど素晴らしい。ジェイソンは自分自身の不殺の戦いと、ブルースが信じた「生きる力」でブルースを守るという、二つの行いでブルースに応えた。なるほどこんなに完璧なジェイソンとブルースの関係性もないと思うのだ、本当に。

そして、もう一つ興味深いポイントがある。このコミカライズニンジャバットマンでは、ロビン四人の中でバットマンをブルースと呼ぶのは、実はジェイソンだけだ。ダミアンはいつでもバットマンを父さんと呼ぶが、ブルースの名で呼ぶのは四人の中でジェイソンだけ。それも、実は編笠を脱いで素顔になった時だけである。

さらにバットマンがタイムスリップ後の世界で己の仮面を外し、かつザビエル的な変装(バットモービル を見てびっくりして変装セットが取れてしまうギャグシーン含む)も抜きにして本当の素顔で真面目に相対するのは、実は二回だけ。一回は出陣前に隠れ里の面々に挨拶するシーン。これは、最後のオチ、つまり現代に戻ったあと、パーティにて隠れ里の一族の末裔がブルースにバットラングを渡すエンディングに繋げるための伏線だ。それ除くと、実は変装抜きの彼の素顔を見ることができたのは一人しかいない。キャットウーマン、ではなく、そう、ジェイソンだ。

あの水辺のシーンだけが、本当に切り出されたみたいに、素顔を晒し合う唯一の二人なのだ。

だから、このコミカライズ版ニンジャバットマンは本当にジェイソンファンにとってたまらないはずなのだ。だって、自分の死をもってしてもジョーカーを殺してくれないのか、なんて、こんな惨めな方法で愛を確かめようとする必要なんて、この世界のジェイソンにはない。

この物語の中でブルース・ウェインを独り占めしているのは、外でもない彼なのだから。

 

オマケ:全然ディックと似ていないジェイソンの顔について

コミックス下巻には、現代に帰還した後のロビン達4人の後日談が描かれている。そこで初めてジェイソン以外の三人の素顔がわかるのだが、ほんっっっっっとうにジェイソンが全然ディックと似ていない。というか、4人集めて横一列に並ばせたときに、圧倒的にジェイソンだけが絶対に浮くくらい他と違うキャラデザなのだ。

例えばコトブキヤのIKEMENシリーズはロビン達の顔はどことなくみんな似ていて本物の兄弟感がある。

https://www.kotobukiya.co.jp/page-123282/

これと比べると圧倒的に似せる気が本当にないキャラデザなのはわかってもらえると思う。

それが、私は、すっっっっっっっっごく好きだ。ブルース・ウェインにとってジェイソンは誰の代わりでもなく、誰に似せる必要もなく、だた一人のジェイソン・トッドなんだと、少なくとも彼を失ってからブルースはそれを痛いほど理解しているはずなんだと、勝手に私は噛み締めて鼻をすすった。

「誰のものでもない誰か」の「結界」が見えたとき

※この記事は何かの漫画やアニメの感想ではなく、「子持ちや結婚を許されないヒーロー」をきっかけに最終的には「公式と解釈違いとはどう言う感情か?」を私が内省する謎記事である。

 

唐突だが、現在バットマンを勉強中だ。ことのきっかけは映画「JOKER」を見るにあたり全くバットマンを知らないままではダメだろうとダークナイトトリロジーに手を出したあたりから始まる。

露骨にどのあたりにハマっているのかわかりやすいが、現在ダークナイトトリロジーバットマンvsスーパーマン、レゴバットマンザムービー、ニンジャバットマンを見終わり、邦訳コミックスについてはロビン:イヤーワン、デス・イン・ザ・ファミリー、ハッシュ、アンダー・ザ・レッドフードまできて現在バットマン・アンド・サンに手をつけたあたりである。

 

バットマンにはサイドキック(相棒兼弟子的な存在)としてロビンという男の子(あるいは女の子)がいる。彼・彼女らは立場としてはバットマンの子供的なところがあり、養子になっている子もいる。

全くバットマンを知らない人からすると「ん?なんかロビンがいっぱいいるみたいな書き方だな?」と思われるだろうが、その通りで紆余曲折色々あって、このロビンの中の子は代替わりしていく。(ロビンとはバットマンの相棒としてのヒーロー名で、個人の名前ではない)

その中で一番最新(という言い方は正しいのか?)がダミアンという男の子なのだが、この子だけはバットマンの実子なのだ。バットマンが敵対する組織の首領の娘・タリアとバットマンの間に生まれた試験管ベビーで、バットマンはそもそもこの息子の存在を知らなかったということになっている、今は。

 

そう、実はこの「バットマンとタリアの間に子供がいる」というネタはサン・オブ・デーモンとして1980年代後半に世に出ていた。世に出ていたのだが、正史(≠IFネタやパラレルワールドネタ)でバットマンが父親になるというのが当時受け入れられなかったようで、このネタは黒歴史としてスルーされ続けていたらしい。

その藪の中の蛇を叩き起こしたのが2006年に出たバットマン・アンド・サンであり…と、私が今日書きたい記事の前段はここまででokなのでこれ以降はカットする。

 

ポイントは「バットマンが父親になるというのが当時受け入れられなかった」という部分だ。なんとなくこの感情はわかる。わかるけど、なぜダメなんだ?となる。ヒーローで不殺の誓いがあるとはいえ、復讐に近いものを動機として力を持って悪を制すバットマンに結婚や家族というのは明るすぎるとか?それもあるだろうけどそれだけだろうか?

 

この、黒歴史になったバットマンの息子問題を聞いて私が真っ先に同案件として思い浮かんだのが、機動戦士ガンダム逆襲のシャア」である。

この映画はアムロとシャアの最終決戦を描いた話であるが、最初アムロはZで恋人だったベルトーチカとの間に子供ができ(身ごもっている段階でまだ生まれていない)、父親になった設定だった。これは上記と同じような、結婚したアムロは受け入れがたいという理由で却下となり、皆がよく知るあの映画の形に収まっている。

ここでまた出た。結婚したヒーローは見たくない。不思議だ。というのは、恋愛するヒーローはokだからだ。バットマンアムロもロマンスのお相手は存在する。結婚した姿は見たくないと言われたアムロベルトーチカと別れたことになり、メカニックのチェーン・アギという新しい彼女ができている。ただ、チェーン・アギは作中で死ぬ。

そう。結婚・子持ちと恋愛の大きな違いは、前者の関係破綻は割とスケールの大きい話だし責任を問われる話で関係の維持が一般感性的に推奨されそうだが、後者は簡単に壊すことができる。特にみんなのヒーローには絶大な大義名分がある。みんなのヒーローはその字面の通り、誰かの彼氏・彼女である前にみんなのヒーローなのだ。あなただけの誰かではいられない、と恋愛関係にある誰かを振ってしまうスパイスになる。つまりヒーローがみんなのものであることを装飾する為にロマンスは有効だけど結婚までされるとその時点でヒーローはみんなのものじゃなくなるので破綻するのだ。

つまり、ヒーローのアイデンティティとは「誰のものでもない誰か」ではないか?と思い至ったのだ。

 

私のものにならないことなんて百も承知だ

アイドルのおっかけをしている人や二次元のキャラクターに入れ込んでいる人を相手に「どう考えても付き合えない(あるいは結婚できない)のに、なんでそこまで夢中になるの?」と指摘する人がいる。例えば私も二次元のキャラクターに入れ込んでいるときに「二次元なんてそもそも次元が違うのになんでそんなに夢中になってハマれるの?実在しないんだよ?絶対付き合えないのに」と言われたことがある。

確かに世の中にはガチ恋勢という、本当に対象に対して恋をする人がいる。当然、主体である自分が何に恋をしようがそれは自由だし、その恋が成就する見込みありきで恋をしなければならない道理は一つもない。成就する見込みが限りなくゼロだったり、実質ゼロ(相手が次元の違う人とか……つまり二次元のキャラクター)だとしても、だからと言って恋をしたらいけない理由も追い求めてはいけない理由もない。

が、今回私が言いたいのはそういうことではない。私は、私が魅力的だと思うキャラクターやアイドル、俳優、芸人、タレント、エトセトラエトセトラ……が私のものになるとかならないとか、そんな風には見ていない。むしろ逆だ。「私のものにならない」ことがわかっているからハマっているのだ。この「私」は今ブログを書いている私個人を示さない。この「私」は数学的にいうならnだ。つまり、「誰のものにもならない」ということだ。

仮に「自分のものになるかもしれない」という可能性が魅力になるというなら、「二次元の誰かをおっかけてないで現実を見て彼氏を作ってみたら?」とか、「絶対付き合えないアイドルにお金を費やしてないでクラスの隣の席の女の子をデートを誘う自信を養うために身ぎれいにするための費用に充てた方がマシだよ」という説教は、的をえすぎて図星中の図星ということになるだろう。

でも、これが根本から的を外れていることもある。というのは、確かに世の中には一定数パートナーや子供ができて、つまり自分自身がすでに「誰かの何か」になってしまった人たちが、それをきっかけにキャラクターやアイドルを追うことをやめるケースは多い。その一方で、夫や妻、子供を持つ「誰かの何か」であるはずなのに、ある俳優が結婚したと聞いて「ロス」を起こす人もいるだろう。○○ロスを起こす世の中の人全てが未婚の女性や男性だけとは流石に私も思えない。

したがって、やはりこの「誰のものにもならない」ことは一つの魅力として確かに存在するのではないか?と思うのだ。

 

「誰のものにもならない」人は全てにおいて平等だし誰も裏切らない

「誰のものにもならない誰か」を好きになることは、すごく「楽」だ。「誰のものにならない誰か」はその名の通り、誰のものにもならない。だから、何をしようが何をしまいが、結果は全て同じなのだ。

例えば私が死ぬほどアムロ・レイが好きだったとして(アムロくんは可愛い)、関係各社に「お願いですからシャアとクワトロで二体フィギュアを作るならせめてどこかの世代のうちの一つでいいのでアムロのフィギュアを出してください。個人的にはファーストのアムロくんがいいですけどアムロ大尉も捨てがたいです。Zが嫌とは言ってません」というメールを毎日50通送りつけたとして、億が一の奇跡でアムロくんのフィギュアが出たとしてもアムロくんは絶対に私のものにはならない。(それはアクシズにめり込んだシャアと共にサイコフレームの光にさらわれるように消えてしまったから、という理由ではなく。)アムロくんがそれを見て「僕のことをそこまで応援してくれるなんて、この人にあってみようかな……」とかには地球が120回生まれ変わってもない。

その「地球が120回生まれ変わってもない」こと、つまり「やっても無駄だし報われることがない」のが大事なのだ。もしアムロくんが私の会社の同僚なら、私がご飯に誘う勇気を少しでも出していれば、もしかしたらいい感じになれるかもしれない「報われる可能性」というやつが「私の中で」「1%くらい存在してしまう」。現実問題としてアムロくんにとって私がアリかナシかの話じゃない。「私の中で」「1%くらい存在してしまう」ことが大問題なのだ。なぜなら、知らない間にアムロくんが別部署の同期と付き合ってしまっていたら「私があの時ご飯誘ってたら、もしかしたらそれをきっかけに仲良くなれてたかもしれないのにあの時勇気を出さなかったから私が自分で1%の可能性を潰しちゃったの〜?!?!」と落込む羽目になる。自分の選択の答え合わせをし、PDCAを回すはめになるのだ。自分の決断に責任を持つことになる。

しかも、これはギャルゲーとは話が違う。私が仮にご飯に誘っていて、確かに友達にはなれたとしてもアムロくん的に「ナシ」であれば私は何をどうしたってアムロくんの彼女にはなれない。たとえアムロくんと一度も会話したことがなくてもセイラさんばりの美人はすれ違っただけでアムロくんの気を引けるかもしれない。「誰かのものになり得る誰か」を追うということは、当たり前すぎて当たり前なのだがそうした「不平等さ」が間違いなくあるのだ。そして「誰のものでもない誰か」にはそれがない。

二次元はわかりやすい。じゃあアイドルは?と言う人はいるかもしれない。彼氏になるとか彼女になるとかまではいわずとも、アイドルから名前を覚えられ顔を覚えられる人がいるじゃないか!と言う人もいるだろう。

でも、これも極めて平等だ。あなたがどんなに醜くどんなに矮小でも、金さえ払えば一定のところまで、つまり「誰のものでもない誰か」が「誰のものでもない誰か」として許す最も接近できるラインまでは金と時間で解決できることが多いし、その仕組みが商売として成り立っているのがアイドルだと私は思っている。「誰のものでもない誰か」は、会場の大きさとか割ける時間とかの関係で「私」の数をどうしても制限する必要になる。そのとき運と金と時間で「私」を選別することはあっても、「私」の人間性や容姿、生まれ、性別で「私」をふるいにかけることはしない。少なくともそういうことに「暗黙のうち」になっているのではないか?

(※でもやっぱりイケメンとか美人とかの方が同じ回数通ってても認知もらいやすいんじゃないの?と思った方、その違和感は大事だからそれを抱えたままよければ最後まで記事を読んでほしい。)

 

ここまではわかりやすいように恋愛ベースで書いてきたので「俺には関係ねーよ」と思っている人は多いだろう。「俺はそのへんわきまえてるよ、推しの○○が結婚しても俺は豹変しね〜から」と思っている人は多いだろう。「推しの○○くんがヒロインの△△とくっついても痛い腐女子や夢女子みたいに炎上しないから」と思っている人も多いだろう。くそ、勝手に炎上して悪かったな。誰の時の何とは言わないけども。

でもこれは、自分にはパートナーや子供がいてすでに「誰かの何か」になっている人も、「誰のものでもない誰か」だって「誰かの何か」になり得るとわかっている人にとっても全く他人事ではないと思う。

なぜならこの心理は突き詰めると、きっと「公式と解釈違いを起こした」と一瞬でも思ったことがある人全てと関係しているからだ。

 

「誰のものでもない誰か」という無関係の上に許された関係

「誰のものでもない誰か」を好きになる利点に、「「何か」になる望みがないので好きでい続けることに努力はいらない」「仮に、「何か」になれないのは承知の上でそれでも「何か」になれない者の中で上位でありたいと思ったら、運と時間と金という平等な手段を持ってして勝負ができる」と行った主旨のことを書いた。

なぜこうまでした平等性が成り立つかというと、「誰のものでもない誰か」は「誰かの何か」にならないので、「誰のものでもない誰か」が誰かを「選ぶ」ことがない代わりに、誰かを「否定もしない」からだ。原則「誰のものでもない誰か」は誰も選ばず誰も否定しない。これは正義のヒーローがわかりやすい。彼が「この人は胸が大きいから助ける」「この人はブスだから助けない」となると、絶対ブーイングが起きるし炎上するだろう。みんなのヒーローはみんなを助ける。このみんなはnだ。そこに私を代入できる。これが「誰のものでもない誰か」の魅力だ。

 

が、一方で、「俺の彼女」でもなければ「私の友達」でもないし「僕の上司」でもない、「誰のものでもない誰か」に嫌に度数の高そうな感情を向ける場面をよく目にする。芸能人の思わぬ発言にSNSが炎上したり、該当の発言にいろんな人のコメントがぶら下がったり、そういうやつだ。日常茶飯事だけど、よくよく考えると凄まじく「変」だと思う。

「今の発言は有名人としてそぐわないと思います」

「責任ある立場ならもっと考えてコメントすべきです」

「企業アカウントを個人アカウントと勘違いしてませんか?」

こうしたコメント全てに同意するわけではないが、正直同じ思いを抱いているケースも多い。「いや、それをその規模の知名度で言っちゃうってどうよ?それ言う必要あったかね?」みたいなやつである。

でも、ふと立ち止まって考えると、これはなんだかおかしい。なぜなら、「誰のものでもない誰か」が何をしようが何を言おうが、それって何をどう逆立ちしてひっくり返ったとしても「関係ない」はずだからだ。

自国の為政者が「女性の選挙権剥奪しま〜す!」等と行ったときに国民が一斉に荒れるのはわかる。女でなく男だったとしてもその国の人間であるなら無関係ではいられないし、民主主義であるならば国民は「為政者を変える」という「関係の仕方」があるからだ。つまり、動けば変わる可能性がある。だとしたら、変えたいなら動かなければならない。そこには「私の住む国」「私が選んだ為政者」という私と相手の関係が確かにあるだろう。

でも芸能人やスポーツ選手やアイドルの一挙手一投足に自分が「関係」していることってあるだろうか?彼・彼女らを好きでいる自分たちが、彼・彼女らから影響を受けることは間違いない。でも、逆方向の発信ってそもそもありえるのか?自分の発言で彼・彼女らの思想が変わったり、反省したり、行動を改めることがあるだろうか?確かに大炎上でもしようものなら活動を再開させるために「火消し」せざるを得ず、結果として謝罪や訂正が入ることはあると思う。

が、思い出して欲しいけれど芸能人やスポーツ選手やアイドルは「誰のものでもない誰か」のはずだ。「誰のものでもない誰か」は「私」とは無関係のはずだ。「自分の事務所の所属員」「自分の作品の登場人物」「自分の会社がスポンサーになっているチームのエース」等、こういう形で言い換えられる「自分とあなた」は関係ある。でも「誰のものでもない誰か」だから「自分とあなた」でいられる場合、そこに関係はないはずだ。

冒頭で、「「誰のものでもない誰か」は「誰かの何か」にならないので、「誰のものでもない誰か」が誰かを「選ぶ」ことがない代わりに、誰かを「否定もしない」」と記述した。これは言い換えると「無関係」ということなのだ。無関係とは関係がないということだ。存在しないものは変わらず壊されず損なわれることもない。否定されることもない。その「ないものはないと証明できない」という悪魔の証明を逆手にとって存在する特殊な関係性が「誰のものでもない誰か」を好きになることなのだと思う。そしてこれは実在する「私」から非存在の「誰のものでもない誰か」に向かっていく常に一方通行の関係だ。「誰のものでもない誰か」から「私」に向かって関係性が向かうことはない。なぜならその時点で「誰かの何か」だからだ。

 

「誰のものでもない誰か」とは、本当にその対象が「誰のものでもない誰か」である、ということではない。それは、観測者である私がその対象を「誰のものでもない誰か」であると認識した、ということだ。

認識するにはそれだけの根拠があるだろう。それは例えば二次元のキャラクターでそもそも同次元の存在でないからとか、相手がアイドルをしているなど「偶像=誰のものでもない誰か」という性質を使って商売をしているので旬が終わるまでは建前上「誰のものでもない誰か」と振舞ってくれるだろうと期待ができるとか、様々だと思う。なので、大抵の場合「誰のものでもない誰か」は「誰のものでもない誰か」であると振る舞い、そう認識してもらうよう行動していることは多いだろう。

でも、それは本当は「誰かの何か」だ。私たちは実在する「誰かの何か」との間に、対象と瓜二つだけれど絶対に存在しない「誰のものでもない誰か」という幻想のダミーをおいて、そのダミーを見ているに過ぎない。

 

無関係という関係の上に成り立つ、幻の「誰のものでもない誰か」との一方通行のそれ。であるのに我々はときにしてその「誰のものでもない誰か」の発言や行動に過剰に反応し、怯え、ときには噛みつき、否定し、SNS上で罵声を浴びせる。

あるいは、例えば自分が大好きで追っている週刊連載版漫画の続きを「読みたくない」と思う人。アニメ雑誌の関係者インタビューを「読みたくない」と思う人。あるいは読んだ後「公式と解釈違いを起こした」と思う人。

自分が、絵が好きだからという理由でフォローした人が、その人と仲のいいフォロワー同士で旅行した写真をアップされるのが面白くないと思う人。フォローした絵師が別のジャンルにはまってしまい別のジャンルの絵をいっぱいあげだしたのが不快だと思う人。

これは観測者が「誰のものでもない誰か」が真実には存在せず、それが崩れ、「誰のものでもない誰か」の元祖とも言える「誰かの何か」との関係が無関係の上に成り立っていると気づいてしまった、あるいは気づきそうになっている状態であることへの必死の抵抗なのではないかと思うようになった。

 

「誰のものでもない誰か」の「結界」が見えたとき

公式と解釈違い、というフレーズがある。読んで字のごとくだが、要は公式が提示してきた展開が受け入れられないときに出るフレーズだと思っている。その理由として、その解釈違いを起こす展開に到るまでに自分が想定してきた「この話とはこういうことが言いたいんだろう」とか「このキャラクターはこういう意味を持って存在しているんだろう」とかいう諸々の予測が悪い意味で裏切られることが挙げられる。

おいおい、あんだけファーストでかっこよかったシャアがなんで突然Zで情けなくなってる上に逆シャアではマザコンになってんだ?!というのも公式と解釈違いかもしれないが、状態は「公式が提示してきた展開が受け入れられない」ということなんだろう。

そう、だから要は「好みに合わなかった」という、ただそれだけなのだ。行った店で食べたパスタランチが2千円したのに麺がコンビニのレンチンもの並だったときに私はがっかりはするけどブチギレはしない。二度とその店に行かないだけでいい。酷評レビューを書く気にもならない。だって時間の無駄だからだ。そのお店にいく未知の人に読まれるかどうかわからない状態で無報酬で「クソマズから金の無駄だよ」と言う気にもならないし、「どうにかしないとあんたんとこ潰れるよ」と店にアドバイスする気もない。

でも私は、急にめだかボックスの話をするが、都城王土くんがあんだけ王様王様していたのに速攻で負け散らかして、考えたくもないけれど球磨川くん早くだしたくなっちゃったから話畳んだの…?みたいに思えてしまった暁には「フザケンナ!!!!!!!!!」と心の中でわめき散らしたし、そこからめだかボックスを真面目に追うことをやめてしまった。(当時ジャンプは毎週買っていたのでその後も読んでいたはずだが記憶がない…)

DIOみたいなキャラクターがその章のラスボス的存在として出てきたと思ってわくわくしたら意外とあっさり負けてしまい、その後すぐに見た目はシンジくんだけどオーラはカヲルくんで悪役としてのタイプ的にはジョーカーみたいな敵が出てきて主役顔負けて活躍し、私が推そうと思っていたDIOはなんだったんだよ?的な状態を存在してもらえれば当時の私の感情に相当近い。

※私はこの王土ショックで当時体重を5キロ落とした。バカすぎる狂気の沙汰で今でもドン引きしている。

 

なんでだろう、と思った。なんでだろう、と思って、それは私がこれだけ都城王土くんのことが大好きなのに作者は私の入れ込み方に見合うだけの活躍の場面、展開、時間を彼に与えてくれなかったことに不満を感じだからだ。

ただ、本当にそれだけだろうか?と思った。先のパスタの例でいくと私は2000円捨てたようなものだが、めだかボックスは毎週買っていたジャンプの中で読んでいた漫画のうちの一つに過ぎなかった。めだかボックスを読むのをやめても私は当時追って読んでいた漫画はいっぱいあったから、金銭的に大損はしていない。なのになんでパスタは平気で都城王土くんはダメなんだろうと思って、ということは私がおかしくなった理由は単に「好みに合わなかった」からではないと仮定することにした。

 

私はこの感情を最近、「結界が見えたから」と例えることにしている。

めだかボックスという話は、都城王土くんが球磨川くんバリに個性を放ち強烈に存在し続けいつまでたっても話のキーでい続ける存在にはしてくれなかった。登場当時は相当「めだかを超える凄さ」のオーラをだしていたので、彼はもっと強敵であり王土戦はもっと重みと凄みと迫力を備えた話になると思っていたのに、全然そうはならなかった。公式はそれを展開として選択しなかった。もっと言うなら公式は球磨川くんという新しいトリックスターのキャラクターを早く出したかったのかな?王土くんのこと、もうこれ以上膨らませられないし早く終わらせよう、みたいに思ったのかな?と「私が」「思えてしまった」のだ。

このとき、私は結界を見た気がした。

都城王土というキャラクターがもっと活躍していてほしいと思う私は「誰のものでもない何か」であると思っていた作品が引いた「想定しうる読者」のラインの外に出された「気分になってしまった」のだ。

否定されるはずのなかった、「誰のものでもない何か」と無関係にならざるを得ない状況を強いられた気になった。私の見ていたはずの「誰のものでもない何か」と目の前で見ているのものには圧倒的にギャップがある。そこで初めて、私と作品はそもそも無関係であることに気づいてしまったのだ。

当たり前だ。オーダーメイドの服でないなら、Sサイズだと丈が短過ぎてMサイズだと袖が長すぎるなんてよくあることだ。だから自分の体型に合う型をよく使う店を探す。あたりまえだ。だって一つ一つのブランドと私は無関係だから。

パスタの味が私の好みでないのも当たり前だ。オーナーは私の味の好みを十分ヒアリングして私の為に作ったんじゃない。だったら味が合わないことだって可能性としては十分ある。

だからいつもそれはある程度予測済みだし、外れを引いたって残念だったとしても怒らないし私の方からそこを選択肢ないという選択をすればいいだけだ。それで終わりではないか。

 

なのに私は、私の気に入った展開にならず私の好きだったキャラクターが、私が全く想定しない顛末になってしまったことに笑ってしまうほどのショックを受けた。それは、私が私と「誰のものでもない誰か」との関係性を見誤ったまま入れ込んでいたが故に他ならない。まずいパスタランチとの距離感は正しく読めていた私は、「誰のものでもない誰か」との距離感を見誤った。私は対象を「無関係な何か」ではなく「私を否定しない何か」だと思い違いをしていたのだ。大変恥ずかしい話だが。

 

「誰のものでもない誰か」なんて本当はこの世に存在しない。それが実在の人間ならそれはやっぱり「誰かの何か」なのだ。二次元のキャラクターだって「作者の創作物」である以上「誰かの何か」だ。「誰かの何か」は「誰か」との関係を持つから、選択をする。ゆえに否定もする。

「誰のものでもない誰か」とは、自分がたとえ相手にとって何者でもないけれど一方通行でいいから関係を持ちたい時の、観測者が自分自身にかける魔法の呪文だ。

それを逆手に取った商売がこの世にあることは事実だと思う。けれど約款や契約書で、締結から十年はこの商品は「誰のものでもない誰か」でい続けますと誓ってくれるものなど何一つとしてないだろう。

そして自分が自分でかけた魔法を忘れて距離を見誤って詰め過ぎると、いきなり透明なガラスの板に顔面を強かにぶつける羽目になる。ないと思い込んでいた、最初からあった結界に驚き、そして知らない間に「否定されることはない」と思い込んでいた自分がどこまでも対象と無関係であることを思い出し、その惨めさに耐えられず八つ当たりで怒って喚いて怯えて吠えるのだ。

 

それを自覚し始めてから、私はすごく目をこらしながら距離を詰めることにしている。そして少しでも透明なガラスのきらめきを見ようものなら、スッと90度方向を曲げ、他所に向かって歩いて行くことにしている。

これを「私の上司」や「私の家族」「私の友達」「私の恋人」にやったら、いつまでも衝突を逃げる人になり、ろくな人間関係を構築できないだろう。(※圧倒的に話の通じない人にはこの限りではないと思う)

でも、「誰のものでもない誰か」との関係はそうではない。だってそれは最初から「ない」のだから。だから「自分にふさわしくない」と思ったら無言で切っていい。無視していい。ミュートすればいいしフォローを外せばいいし購読をやめればいいし買ったグッズは処分すればいい。

その代わりまた気が向いたり「お、私にふさわしくなってきたな」と思ったらミュートを外してフォローし直し、購読し直してこれまですっ飛ばしてしまった部分は気が向いたら買い直したり借りたりして補填し、処分したグッズを買い直してもいい。

無関係だからこその、無責任で流動的な関係が「誰のものでもない誰か」とは許される。だから変に疲れる必要はなくて、疲れないようにメリットだけうまく活用して上手に付き合えばいいという話なのだろう。

かつて王土ショックの時に「大丈夫?何があったの?」っと友達に心配されるほど様子がおかしくなっていた時代、あの頃SNSはここまで盛んではなかったように思う。あれは本当に救われた。もしあの時代に作品の公式アカウントでもあろうものなら、当時の私がどこまで正常であれたかがもう定かではないが手段として「公式にリプライする」みたいなことができたわけだ。

公式に凸する話は度々聞き、いやそれはやばいだろと思っていた私だが、 この結界が見えず距離を見誤ったまま感情に流されると、なるほどそう言う行動に出かねないというのは(良し悪しはおいておいて)理解できる。

SNSが発達し容易に一見したところの関係を誰とでも形成できるこの時代、無関係な誰かを「誰のものでもない誰か」を通り越して「私を否定しない誰か」と見誤るとそういう衝突事故が起きるのだろう。

全然他人事ではないと思いつつ、バットマンを読みながらふとそんなことを思い出した。私が好きなのは今の所ジェイソン・トッドバットマンである。全部ニンジャバットマンのコミカライズのせいだ。ぜひ読んでほしい。

ニンジャバットマン 上巻 (ヒーローズコミックス)

ニンジャバットマン 下巻 (ヒーローズコミックス)