140字以上メモ

n史郎がツイッター字数制限以上のつぶやきをしたいときの置き場です。

プロメアを挑戦の物語と⾒ているから私の主⼈公はいつだってクレイとガロだ (考察本再録)

はじめに

2019年10月のイベントで出したクレガロ考察本の書き下ろし章の再録です。

当時この本を手に取ってくださった方々、ありがとうございました。

 

2019年10月のイベントに出るにあたって当時すでにブログ掲載済みだった記事+書き下ろし一遍で出す予定だったのですが、ちょうどその頃怒涛で製作陣インタビューがアニメ誌掲載され始めました。

この記事の中で指しているのは、このアニメ誌に掲載されていたインタビューだったはずです。どうやらまだ在庫あるみたいですね。

 

spoon.2Di vol.53 (カドカワムック 793)

 

で、これからいっぱいインタビュー出てくるなら、書いている考察がボツになるな〜もったいないな〜と色々迷って、「2019年10月までこれ待ってたらダメなやつだな」と思ってブログに掲載しました。それが以下の記事です。

 

m0n0sprecher.hatenablog.com

 

 で、考察本出すのはやめようと思っていたんですが、すでに新書フォーマットに流し込んでしまって表紙も書いていて、う〜〜んもったいないな〜〜と思い、今回再掲する一遍を書いたという流れです。

プロメア って素直に見たらどう考えてもガロとリオの話のはずなんですが、どうして私はクレイとガロにフォーカスを当ててしまったのかね…?という自己整理のための書き物でもありました。

ゴールデンウィークの暇つぶしにでも読んでもらえたら幸いです。(以下再掲部分は断定調で記載しています)

 

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では以下からようやく再掲します。

 

 

物語とはいつだって「例え話」だ

今後のことを書く上で「まず私の考える」「物語の性質」の話をしたい。こういう思考回路の⼈間が以下のことを書いている、と踏まえていただきたいためである。

ちなみにこれは独学というか完全に個⼈の趣味趣向レベルのことで、専⾨的な学問は全く修めていない⼈間の戯⾔である。あくまで私という書き⼿のスタンスを⽰す話である。

まず、物語には⼆種類ある。フィクションとノンフィクションだ。⼀旦ノンフィクションから定義していこう。

私は、ノンフィクションとは実際にあったこと(あるいはあったとされること)を書き⼿が解釈し、書き起こしたものだと思っている。つまり、実際にあったこと⾃体はあったこと以上でも以下でもない、ということだ。例えばプロメアがノンフィクションの話なら、クレイがガロの家の前でプロメアの暴⾛を⽌めきれず発⽕してしまった理由の可能性の⼀つに「偶然」が⼊ってくることは⼗分にありえる。

現実の出来事にいちいち意味はない。現実の出来事に⾒出す意味はいつだって後付けに過ぎない。

あなたが現実で上⼿くケーキが焼けたとする。あなたはその理由を「今回は砂糖を少なめにしたから」と思っているけれど、その理由が真実であると証明するのは難しい。上⼿く焼けたケーキに対し、それが⽣成されるまでの過程を振り返り、美味しくなかったこれまでと美味しかった今回の差異を考え、⾃分が納得できるものが「砂糖の量の違い」だったからそう思うことにしただけに過ぎない。

もしかしたら調理場の気温が違ったことが理由かもしれないし、あるいは今⽇のあなたの体調が良くて物を美味しく感じることができただけかもしれないし、だから今⽇のケーキが美味しかった理由なんて誰にもわからないのだ。そもそも「美味しい」という極めて主観的な現象に理由を⾒出すこと⾃体が無理なのだ。でも⼈は理由のないことが嫌いだから、後付けで理由を探す。その後付けの理由すら⾒つからないものを、⼈は「偶然」と⾔う。だから、後付けをやめたら全てが偶然とも⾔える。

これが現実で、ノンフィクションはこの現実を書き起こしたものだ。当然、書き⼿の解釈や主観が乗るだろうが、けれどクレイがガロの家の前でプロメアの暴⾛を⽌めきれず発⽕してしまった理由として、その時家から聞こえたガロの声にクレイがイラついたことが考えられることはあったとしても、ガロにとってのクレイが恩⼈のふりをした加害者となるため、なんてことはあるはずもない。そんなこと、現実やノンフィクションではあり得ないのだ。

が、フィクションはそうではない。ノンフィクションが実際にあったこと(あるいはあ たとされること)を書き⼿が解釈し、書き起こしたものだとするなら、フィクションは何もないところから書き⼿が作るものなのだ。

だから、クレイがガロの家の前でプロメアの暴⾛を⽌めきれず発⽕してしまった理由として、ノンフィクションなら偶然が許されてもフィクションでは許されない。これは話の中での偶然・必然の話をしているわけではない。書き⼿が「クレイがガロの家を焼いた」としたなら、それは書き⼿が定めたことだから、書き⼿がそう定めたことに意味はあるし理由はあるということだ。

もっというなら、書き⼿はクレイにガロの家を「焼かせた」ので、その「焼かせた」理由に意味があるということだし、その⼀つ⼀つの意味が重なって物語はできあがるし、あるいは⼀つの物語を作るためにありとあらゆる事象に意味は⽣まれる。

これの極端にわかりやすい例が「伏線」だ。現実では伏線なんて滅多にない。靴紐が切れて外出が⼆⼗分遅れたらから列⾞事故に合わなかったとして、ノンフィクションではそれは「起きた事実」でそこに意味はない。実際に起きたある出来事とある出来事を、ありのままの時系列で表すしかない。そこに意味を⾒出してもそれは書き⼿や読み⼿の気持ちの問題で、現実世界の因果に影響を及ぼさない。

でもフィクションはそうじ ない。フィクションには全ての事象に全ての意味がある。靴紐が切れたのは後に起きる列⾞事故に「巻き込ませないため」だ。意味なく靴紐は切れない。靴紐は意味あって切れるのだ。

だから、物語はいつだって「例え話」のはずだ。靴紐が切れて列⾞事故に巻き込まれなかったガロは、その靴が誰から贈られたものかを思い起こす。それが随分前にクレイからもらったもので、みんなからボロボロなんだから捨てろと⾔われたのにずっと履き続けていたとしよう。とすれば、それは「クレイがガロを守った」ことになるし、「クレイの思いを捨てなかったガロは⽣き残った」ことになって、その世界の中で⽣きることは善という指標があるなら「クレイの思いを真意はどうあれ変にひねくれずに素直に受け⽌め捨てないガロは勝者」になる。この話は「素直なガロは祝福され、真意がどうであれクレイがガロに与えたものはガロの守護になる」という主張の「例え話」というわけだ。

ということで、プロメアがフィクションである以上その⼀挙⼿⼀投⾜全てに「意味」があると思っているし、それは何かの「例え話」だと思っているのが私だ。

プロメアが⼤ウケしているのはその「例え」の要素がかなりあるからだと思っている。⾒⽅の⾓度を変えると、そこには無数の「例え」がある。差別、異⽂化コミュニケーション、協⼒することの素晴らしさ、仕事へのプライド、価値観の⼤逆転、などなど。全ての「例え」が全員のストライクゾーンにハマる必要はない。散りばめられた無数の「例え」のうち、どれか⼀つでも⾃分にハマるものがあったとき、あなたはプロメアにハマったことになるのだから。

その中で私にヒ トしたのは、「挑戦とそれを阻むもの」という構図、そして「挑戦することの素晴らしさと阻むことの愚かしさ」という「例え」なのだ。だから私はクレイとガロに夢中だと、そういうわけなのだ。

 

クレイ・フォーサイトの「誤」の意味を無視したくない

挑戦の物語があるとき、絶対にそれを阻む⼈間がいる。プロメアでは、挑戦者がガロであるならそれを阻む⼈間はクレイだ。物語上はクレイのパルナッソス計画をガロが阻むのだけれど、本質的には逆と⾒ている。クレイのやろうとした計画は「できるとわかっていること」で、ガロが⽬指した地球のマグマの消⽕は「できる確証はないしむしろできないと思われているけれど、これができたら全てうまくいくこと」だ。クレイが遂⾏するパルナッソス計画はガロの挑戦を阻む。なぜならパルナッソスが⾶ぶとき地球が滅ぶからだ。

私は、この挑戦者構造でプロメアを⾒るのがとても好きだ。理由は単純で、この構造は「ガロが勝ったこと」はもちろん「クレイが負けたこと」に⼤きくポジティブな意味を与えてくれるからだ。

私の⽴場は「クレイは地球と⼈類の救済に対して真摯ではない」というものだ。なぜなら、私はクレイには負けるに⾄った意味があると思 ているので。⾔い換えるなら、プロメアという物語があの様な⼤団円で終わったのなら、そのエンデ ングの導き⼿であるガロが勝者であり、それを阻⽌できなかったクレイが敗者となる。そしてその場合、勝者であるガロがプロメアという物語の中での正であり、敗者であるクレイは誤なのだ。そして誤が誤であるのは「間違った何か」を有していたからで、プロメアという物語はその「間違った何か」を否定し、逆にガロが勝者たり得た「正しい何か」を肯定するための壮⼤な「例え話」だと思っているからだ。だとすればクレイ・フォーサイトは間違っているはずだ。存在そのものなのか、あの答えに⾄った過程なのか、とにかく何かが否定されてしかるべきである。だってプロメアはフィクションだから。そこには絶対に何か理由があるのだ。

なので、私は⼰のスタンスを常に「クレイ・フォーサイトは間違っていた」からブラさないようにしている。彼も頑張った、みたいな⾒⽅は私にとってはナンセンスだからだ。彼の頑張りが肯定されてしかるべきなら、私は彼があそこまでガロとリオにコテンパンにされて地球救済に全く関与されず吹き⾶ばされて終わることにはならなかったと思っている。もし彼にも肯定される要素があるのなら、例えば最後ガロとリオがガロデリオンに乗り込むまでの過程のどこかでクレイの助⼒があるとか、もっとわかりやすく三竦みで地球を救うエンディングになるべきだと思うので。

けれどそれはなかった。地球を救ったのはガロとリオだ。クレイは徹底的に阻むものの⽴場であり続けた。だとしたらそれが彼の存在する意味だし、そういう彼の有様が物語の中で⼤きな意味を持つはずである。最後までガロと和解せず、なんだか置いてけぼりになって颯爽と地球を救う少年⼆⼈にびっくりする三⼗路の男がクレイで、それがあのプロメアというフィルムで描かれた「事実」だ。無様に敗北を喫することはノンフィクションであれば無意味で無価値だろう。でもフィクションはそうじゃない。負けたことには⼤いなる意味がある。それは「誤」を提⽰するという⼤きな意味だ。それは「正」を提⽰することと表裏⼀体であるほどの⼤きな意味だ。

クレイ・フォーサイトは「誤」を提⽰するキャラクター だ。彼はそのために⽣まれ、描かれ、声を充てられ動きを得たと言っても過⾔ではない。その彼の「誤」を無視するのは彼を無視するのと同義だ。私は彼を無視したくない、絶対に。彼が良い⼈だったとかガロのことを愛していたとか、そういう妄想は⼤好物だけれど本編の彼が提⽰する「誤」を無視してその⽢い妄想に⾶びつくのは、私としてはまだ早い。彼の「誤」と向き合おうじゃないか。彼の「誤」を考えようじ ないか。彼の「誤」を⾒つけた時、それと鏡合わせの「正」を持っているのはガロ・ティモスのはずだ。クレイ・フォーサイトの「誤」を追えばガロ・ティモスの「正」を⾒つけられ、そしてこのプロメアという物語が持つ⼀つの「例え話」を⾒つけられると私は思っている。

そしてクレイ・フォーサイトの「誤」とガロ・ティモスの「正」を最も⼤きなスケールで読み取ることのできる⾒⽅が「挑戦の物語」の構図なのだ。

 

現実とフィクションはクレイとガロで交差する

私がプロメアを「挑戦の物語」と⾒始めたのは、例のアニメ誌のインタビューを読んでからだった。しかも脚本家のインタビュー部分ではない。監督のインタビュー部分でもない。⾊彩設計に関する部分について読んだ時だった。

詳しいインタビューは雑誌を読んでもらうほかないのだが、ここに書いてあったのはプロメアの⾊トレス技法についての話だ。プロメアが⾊トレスという技法を採⽤していることについては、インターネットで「プロメア・⾊トレス」で検索してもらえれば無料のニュース記事でも読むことができるので、知らない⽅がいたらそれで読んでほしい。

これとか↓

https://anime.eiga.com/news/108741/

 

アニメ誌で触れられていたのは、この⾊トレス作業がどれだけ⼤変だったかという話だった。本当にそれだけだったのだが、私は「これがプロメアだ」と、すとんと納得してしまったのだ。

⾊トレスとは、線と画の塗りを馴染ませるため、線の⾊を隣接した画の塗りに近づける技法だ。例えば、ピンク髪のアイナの頭部の線の⾊は、⿊ではなく紅⾊みたいな濃い紫だ。ぶっちゃけ、それ以上でも以下でもない。⾊トレスになったから劇的にタッチが変わるとか、⾊トレスでないから作品の価値が落ちるとか、そんなわけない。「⾊トレス」という名称がわざわざ付いているほどなので、「⾊トレス」は少数派だ。⾃分が⾒るアニメやコミックの表紙絵でもいいのでカラーのイラストを⾒てみてほしい。⼤抵線画は⿊ではないだろうか。少なくとも⼀⾊だと思う。

だって素⼈の私でもわかる。⾊トレスってわけのわからないほどめんどくさい。今回の表紙も試しに⾊トレスもどきで塗ってみたが、まあめんどくさい。相当横着した⾊トレスもどきで、もう間違えまくっているし、しかも⼈を⼆⼈しか描いていないのに、もう嫌だった。それをプロメアは映画の全編でやっている。そして、ぶっちゃけ⾊トレスはしてもしなくてもいい。多分⾊トレスをやらなくてもプロメアは素晴らしいアニメ映画だ たと思うし、⾊トレスがなくても私は何回か⾒に行っただろう。

⾊トレスは装飾品だ。ネックレスをつけていてもつけていなくても、美⼈は美⼈でブスはブスだし、その性格が良い⽅向に変わることもない。それより約束の時間に遅刻しないこと、忘れ物をしないこと、待ち合わせの場所を間違えないこと、そういうことの⽅が⼤事だ。⾃分に似合うネックレスを探すことに時間を費やして他のことがおろそかになっては意味がない。

(再掲に過去つけての補足。厳密には色トレスにすることでプロメアのあのアクション作画が成立する、という効果の波及要素はあると思っているが、ここで指しているのは「色トレスを採用しなければ成立しない作画構成は必須要件ではなく、むしろそう言う作品の方が多いし、納期に間に合わせ予定通りに映画を配給することの方が大切なので、その選択をしなかったとしてもプロメア は面白かったしヒットしたのではないか?」ということが言いたかった)

 

実際、インタビューを読む限りこの⾊トレス作業は相当過酷と⾒受けられたし、これがなかったらダイエットできた制作時間はかなりあっただろうし、というか製作陣に与えられた時間から逆算して⾊トレス技法を突っ込むことは相当無謀な試みだったようだ。

この記事を読んで、私は思った。きっとこの⾊トレス技法について「そんなことやっている場合じゃないだろう」と苦⾔を呈し阻⽌する⼈間はいたはずだ。こんなことして納期に間に合わなか たらどうするんだとか⼈的コストのことを考えているのかとか、絶対いたと思う。普通なら⾔うだろう。そしているとしたら、それが「クレイ」なのだと私は思った。そして、それでもやると決めてやりきった製作陣が「ガロ」なのだとも。

だから、気づいたのだ。プロメアは、徹底的な挑戦の物語だ。だってその制作⽅法がそもそも挑戦の極みなのだから。やれない、できない、間に合わないを跳ね除け、やれるしできるし間に合わせるを貫いて作中守りきったのが地球と全⼈類なら、現実世界ではそれは「プロメア」という作品そのものなのだ。

⾊トレスの話は私がそれに思い⾄ったきっかけだけれど、私が気づいていないし製作陣が明らかにしていない挑戦の数々はもっともっとあるはずだ。無数の、やれない、できない、間に合わない、が阻んできたはずだ。現実的じゃない、もっとやれる⽅法でやらないか、という迷いが何度もあったのではないかと思うのだ。それを全部跳ね除けて、「これじゃなきゃダメなんだ」と貫き通したのがプロメア製作陣でその結果守り通せたのが、我々がスクリーンで⽬にする「プロメア」なんだと思う。

だとすれば、である。プロメアを挑戦の物語と⾒ることは、すごく本質的ではないか?と思うのだ。製作陣が⼀切妥協せずこだわり抜いた結果、私はこの映画を⼋回⾒た。これまで同じ映画を⾒た最多回数は四回だ。倍に更新されてしまった。私個⼈のスケールだけではない。五⽉の下旬に始まった映画は上映劇場や⼀⽇の上映回数こそ制限されるが。それでもこの章を書いている九⽉下旬の今でも終わらない。スクリーンでガロはまだ⾒栄を切っている。売り上げは⼗億どころか⼗⼆億を越え、ついに4DXまで決まった。これは挑戦の勝利だ。このプロメア製作陣の挑戦は正しかったという証明が、この結果だ。そして⼤変興味深いのだが、この結果を作っているのは我々「ファン」に他ならない。

何が⾔いたいのか?つまり、プロメアという「作品」が挑戦の物語だとして、その「作品」に込められたメッセージが「挑戦の素晴らしさ」だったとして、私たちはその「ガロ・ティモスの挑戦の素晴らしさ」に感動し、震え、それ⾒たさに何度も映画館に⾜を運び作品を⾒る。⾦を落とす。そして結果的にプロメア製作陣の「現実での挑戦」を我々が肯定する、という興味深い構造になっているということだ。プロメアが挑戦の物語ならば、ガロの挑戦という「正」に魅せられた我々によって現実の製作陣の挑戦も「正」になるということなのだ。

⾃分たちを阻む無数の、やれない、できない、間に合わない、を全部はねのけて、ただ⼀つの貫きたいことをひたむきに⼀⼼に貫いた結果⽣まれたのがプロメアだ。そのプロメアで宇宙⼀の⽕消しバカだと豪語する、堕ちたパルナッソスの上で空を⾒上げながら笑うガロを⾒て、その挑戦の素晴らしさをこの⽬で⾒たいと何度も劇場に⾜を運ぶのが私たちだ。そして何度も⾜を運んだ結果が興⾏収⼊⼗⼆億で、だとすればこの度のプロメアという作品を作る上で製作陣が取り組んできた数々の挑戦は「正しかった」と証明される。この映画は挑戦という⼀点において、現実とフィクションを無限にループする。肯定のループだ。だから、だからこそクレイ・フォーサイトは負けなければならなかった。阻む者である彼は徹底的に負けなければならない。阻む者である彼に対してガロが屈したり、あるいはお互いが⼿に⼿を取って和解してしまったりしたら、それはプロメアではない。阻むものに屈せず媚びず極めて貫くからプロメアだし、だからこそあの空は素晴らしい。プロメアは挑戦の物語だし、挑戦が成功する物語でもあって、だからこそこれを⾒た全ての⼈の挑戦を応援する映画でもあれば、これを⾒た全ての挑戦を阻む者への戒めでもあると思っている。

作中、ガロとリオはクレイを批難する。クレイザーXが繰り出す技を⾒て、それをマグマの消⽕の⽅向で応⽤しないのはなぜだと問う。リオは、どうしても移住がしたいようだと⼀種の頑固さとしてクレイを批判する。ガロはくだらない野望だと⾔う。

そうなのだ。くだらない野望で合っているのだ。本当の挑戦者たちからすれば、クレイがああだこうだと否定し無理だと宣うことは全部くだらない⾔い訳にすぎない。その⾔い訳を振りかざして他⼈の挑戦を⽌める⾏為に善性はない。誰かの挑戦を⽌めるものがあるとすれば、それは同じ純度で別の⽅向を⽬指す別の挑戦のはずだ。プロメアはそれを否定しないはずだ。だってプロメアでは異なる⽅向性の⼆⼈の挑戦者のガロとリオは⼿を組み、二人は勝利した。クレイが挑戦者だったなら、きっと大団円は三竦みで迎えたはずだ。

だから、クレイは挑戦者ではなく挑戦を阻む者だったはずだ。⾃分だって挑戦者という顔をして、⾃分の物差しで全てを測り、他⼈の挑戦の邪魔をする⼈間はかなりいる。それは「悪」なのだと、挑戦しないものが挑戦者を邪魔してはならないと、でなければ⾰新や奇跡が起きる未来なんてないんだと、そういうメッセージを勝⼿に私は受け取った。その正しさは興⾏収⼊⼗⼆億という数字が証明していると思った。本質だろう。

これは「挑戦者」だけでは伝え切れないメッセージだ。それを阻む者がいて、挑戦の素晴らしさとそれを阻む愚かしさの⼆⾯構造が完成する。そのためには、ガロだけではダメだ。クレイもいないとダメだ。ガロに負け、ガロと和解せず、ガロに置いてきぼりにされて吹き⾶ばされ、何が起きたのかよくわからないまま救われた地球でぽつんと座り込むクレイがいないとダメなのだ。クレイの「誤」がガロの「正」を担保し、その「正」が我々を魅了し、そうして魅了された我々が現実の挑戦を「正」とする。現実とフィクションはクレイとガロで交差する、挑戦というその⼀つの「例え話」を超えて。

だから私はクレイとガロが好きなのだ。このプロメアという物語が挑戦の物語なのだとすれば、主⼈公はクレイとガロだ。プロメアの製作過程の例え話こそがプロメアそのものだと読み取れるのは、プロメアを挑戦の物語と⾒た時で、その時スポットライトが当たるのはクレイとガロだ。その時⼆⼈はループの起点で全ての本質で現実とフィクションが交差する地点で、カーテンコールで最後の最後に揃って中央にお出ましになるのも、私にとってはこの⼆⼈だ。

⼆⼈は徹底的に対⽴していてもいい。度し難き君らはそれでいい。それでもこれ以上の組み合わせはまたとない。それがキャラクターとしてこの世に形を成したクレイとガロの役割で、私たちはその役割が魅せてくれる意味をもうこれ以上ないほど知っているはずなのだから。