140字以上メモ

n史郎がツイッター字数制限以上のつぶやきをしたいときの置き場です。

プロメアは情報量ダイエットが格段に上手い

プロメアを、初見から起算して2週間のうちに通算4回見た。1週間目で3回見て翌週に4回目を見る頻度だ。

 

プロメアが唸るほど「上手いな」と思うのが、2時間映画という枠できっちり風呂敷を畳んできたことだ。プロメアはオリジナルアニメ、つまり既存アニメの劇場版とか完結編ではないので、本当にこの2時間の枠で世界を初めて世界を畳まなければならない。それをきっちりやってきたな、というのが圧巻だ。

だけど、見た人全員思うことだが、2時間の枠に綺麗に収まったからと言って決してこじんまりした小さめスケールの話ではない。レスキューのメンバーみんなにスポットをあてたり、リオの過去とかガロ・クレイの馴れ初めとかにスポットをあてたら2クールでも尺が足りたかどうかわからないのでは?というボリューム感をぎゅ〜〜っと圧縮している。2時間の枠なのに2クールアニメ並みの中身を味わえる。濃厚。

 

そう、だからプロメアは異常に情報量ダイエットが上手い。私がプロメアに病みつきになる最たる理由はここである。

 

※核心的なネタバレがしょっぱなから出ているので未視聴の人は早く映画館に行って欲しい。

 

プロメアは家族を描かない

プロメアではエリス・アイナ姉妹をのぞいて徹底的に「家族」が描かれない(エリス・アイナがなぜ姉妹でなければならないかは後述する)。ここが非常に上手い。

これが非常に活きているのが、クレイ・ガロの関係においてである。ガロは幼い頃火事に合い、その時助けたのが後のプロメポリス司政官、クレイだ。ガロは、自分を救ってくれたクレイを「旦那」と慕い、彼に恩を感じで火消しとして生きている。

が、終盤明らかになるが何を隠そうこのクレイがバーニッシュであり件の火事の犯人だった、とわかるわけである。

字面だけ追うと(クレイが半ば事故に近い形で放火してしまったのもあり)吐き気を催す地獄なのであるが、ガロのスーパー光属性もあってか物語は最終的に爽やかな結末を迎える。視聴後家に返って「…ん?」となることはあっても、あのジェットコースターのような映画をリアルタイムで見ている間は観客全員あの爽やかさを味わえたと思う。

なぜか?それはひとえに「ガロの家族の描写がないから」だと思っている。

よく考えれば、ガロがアンドロイドでもない限り絶対彼には生みの親がいる。今、彼の親はどうなっているのか?順当に考えると件の火災で亡くなっていそうなものだ。が、もしかしたら親は無事避難できたのにガロだけが取り残されて、それをクレイが救ったのかもしれない(4回しか見ていないので不安だが、「クレイがガロの親代わりである(=ガロの本当の親はいない)」という明確な描写はなかったはずだ)。というか、そもそもガロは孤児で、あの火災の時点ですでに両親を失っていた可能性もある。

さて、もし「ガロの両親がクレイによる火災で死んでいた」という描写が本編中にあったらどうなるだろう?決してあの爽やかなエンディングは訪れなかったと思うし、どうひっくり返ってもあの2時間で納得のいく結末まで持っていけなかったと思う。ガロだって「自分だけが生き残ってしまった」という自罰的なキャラになっていそうだし、自罰的でなかったら「自分だけ生き残ってなんでそんな明るいんだ?」と一部からバッシングを食らう羽目にもなりそうである。

そんなことを本編でやった日には、ガロ・クレイ編みたいな形で二人の過去までがっつり掘り下げ5話くらい割いた上でさらに2時間ものの映画でガロ・クレイ決着編をやらなければいけないほどの厚みになると思う。

がしかし、プロメアにそれは許されない。なぜなら2時間一本勝負ものだから。ではどうするか?簡単だ。「家族」を描かないのだ。

プロメアは、あのカートゥーン的なタッチと世界観も相まって「家族がいない」有様が絶妙に許容されている。ラインフレンズと一緒だ。多分、ラインフレンズのムーンに「親父とお袋いたのか…」と驚く人はいても「なんでサリーの母親はどこにもいないの?!」とか「ブラウンからの仕打ちを知ったら、コニーの両親はなんて言うだろう」みたいに心を痛める人は少ないと思う。

だから、プロメアを見た観客の中で、家に帰ってから「ガロの両親はクレイに焼かれたのかな?だとしたらガロの気持ちは…ウッ、もう一回見に行って確かめに行かなきゃ…」という人はいても、あの2時間を目の当たりにする中で「なんでガロの両親の描写はないんだ?!」とそれに気を取られて集中できなかった人は少ないと思う。「なるほど、このアニメは"そういう"感じなのね」と割り切って、画面に映らない、見えない外縁情報はシャットアウトして目の前の2時間に集中できたはずだ。

あの2時間で存在するキャラクターを厳選し、そして厳選したキャラクター「以外」に意識を向けさせないことを徹底する、これが本当に上手いと思う。

 

プロメアは3人の物語だし3人以外はガンガン削る

先の項でプロメアは家族=登場人物の外縁情報をシャットアウトすることで情報量のダイエットをしていると書いたが、この映画のダイエットのストイックさはそんなところでは止まらない。

私が大変驚いたのが、ガロ・リオ・クレイ以外の登場人物がキャラデザも声優も大変魅力的なのに全然深掘りされないし話の根幹に入り込んでこないところだ(エリス・アイナについては後述する)。

私は冒頭早々レミーに心奪われ、そういえば公式ホームページの人物紹介では副隊長と記載があったし、隊長のイグニスとの熱いコンビとかがあるのかもしれない…と思ったら全然なかった。

プロメアが2クールアニメなら絶対レミーメイン回が1〜2回あったと思うし、全キャラクターがそういう掘り下げがあってしかるべき魅力を抱えていたと思うのにその魅力が明確にはわからなかった。(でもそこにいるだけで「こういう魅力があるキャラなんだろうな」と雰囲気を察して勝手にレミー回を見た気持ちになってしまう)

そう、もう何度も言っているが、プロメアは2時間映画だ。レミー回をやっている余裕はないしそこまで風呂敷を広げたら収集はつかない。だからレミーは刈り上げおかっぱでミントグリーンでメガネで声が吉野(これは過去作品からの絡みとは思うが)なのだ。そんな見た目と声の彼が冒頭早々レスキューギアで登場し、フッ…みたいに出てきたら彼が組織の中でどういうポジションでどういうスタイルなのかは把握できて、もうそれでいい。

それ以上の掘り下げはいらない、あとは彼が彼と言うキャラクターらしく要所要所で振る舞うだけでいい。バリスもルチアもイグニスもそうだ。それだけでバーニングレスキューがどんな組織なのか描写し切れる。時間を割かずとも視聴者に伝えられる。

この割り切りも見事だ。話の筋をブラさないためにあえて主役3人以外をバッサリ切る、そして必要最低限の「その他のキャラクター」のモーションで、主役3人が身を置く組織の有様を描く。

出したキャラクターである以上、描ききらないといけない、は「違う」し、描ききらなくても「活きる」を魅せてくれるのもプロメアなのだ。

 

プロメアはショートカットのための家族はガンガン使ってくる

ここまで後回しにしてきた、アイナとエリスの話をする。話を普通に追っていくと、エリスは結構なまでのシスコンだ。いっそ母子の方が良いのでは?と言うほどの溺愛ぶりであるが、これには訳があると思っている。

プロメアは話の都合上、①パルナッソス計画の要の研究を行う人間がクレイ以外で必要であり②その人間が終盤クレイを裏切ってガロ・リオ側に寝返る という流れが必要だ。そして、この①②の流れは物語の鍵になるポイントではあるものの、やっぱり尺を割くわけにはいかない。

だから、プロメアはアイナとエリスを姉妹にした。①を担う研究員の家族をガロ・リオ側に置き、かつその研究員を家族第一の思考にすることで②を違和感なく行えるようにした。「エリスは妹思いの姉」という、たったそれだけの要素が②に自然さを与えるし、わかりやすく明快に描くことができる。

 

これは、我々視聴者が「家族は(一般論では)思い合うものだし、(一般論では)何より優先するもの」という概念を大なり小なり持っていると見越しての技だ。プロメアはこの概念が視聴者にあると信じ、一から「どうしてエリスがクレイを裏切るのか」という説明を「エリスは妹思いの姉だから」でショートカットした。見事なまでの時短だし、この時短が見込めるからプロメアの中でアイナとエリスは例外的に家族なのだ。

また、アイナが主人公3人をのぞいてダントツで描写が多いのはヒロイン枠ということもさながら、エリスがクレイを裏切る=地球を捨ててでも救う価値のある良い人間だ、と視聴者を納得させるためだったと思う。

エリスが裏切った段階では半年という未来はあるものの、やはり決定的な地球冷却の策がないためパルナッソスで1万人を救わなければ人類全てが地球と一緒に死なば諸共だった。つまりプロメテックエンジンを壊す=クレイを裏切る=人類破滅だったのは事実だ。

エリスはガロのように「俺がなんとかして全部救う」みたいなマインドの持ち主ではなかったので、あの場でプロメテックエンジンを破壊したというは「今人類を救う代わりに妹を失うなら、半年後に地球ごと妹と心中する」という心理にあったと見ていいと思う。

エリスの動機と、ヒロイン。二人分の描写のための尺はない。だからアイナはエリスの裏切りの動機とヒロインを兼務することで時短を実現しているし、だから例外的に主人公3人以外で描写の尺を許されているのだ。

 

最後に

ということで、プロメアは情報量が多そうな映画の振りをして、情報量ダイエットが非常に上手い映画だと思う。2時間枠のなかで起承転結、世界の始まりから終わりまでをどうやって「パンパンに」収めるかの試行錯誤と匠の技を感じる。

ガロが底抜けに光属性なのも、私はこの2時間問題のためだと思っている。ガロはバカだけど聡明というのがよく聞く評判だが、ガロはこの2時間の枠の中に収まるために迷ったりいじけたり喚いたり怒ったりできず、聡明になるしかなかったのでは?と思う。

だからこのショートカットされた(と私を含めた一部の視聴者がゲスの勘ぐりで勝手に感じる)ガロの感情を解凍・復元して色々と妄想する余地もあって、なるほどプロメアは抜かりないなと感じるのだ。遊ぶ余地しかないではないか。

久慈誓は悪いやつだし兄だったで正解

最終話を見て

さらざんまい、最終話を見た。金曜朝の5時にFODで見て、胸にぽっかり穴が空いた。久慈誓だけが取り残されたような気持ちになったからだ。

 

私のツイッターを前から追ってくれている人がいたらわかってくれると思うのだが、私はワンピースのローとコラソンが大好きで大逆転裁判のバンジークス兄弟が大好きな人だ。そして、イナズマイレブンアニメ版で吹雪士郎がアツヤのマフラーをグラウンドに投げ捨てたことにひどいショックを受けた人間でもある。

要は、悠がこうもあっさり誓を卒業したことがとても悲しかった。なにか引きずる描写をくれれば…と思っていて、それがなかった。だから私のさらざんまいには穴が空いてる。このアニメでは、久慈誓だけが報われない。誓と同じようにレオだって人を殺しまくっているのに、最終回ではマブとともに復活した。本当に、誓だけが報われない。

 

が、一晩寝て起きて、思い直した。多分、たとえ悠が最終回で誓に思いを馳せるシーンがあっても、別にそれで誓が報われることなんてない。むしろ、馳せなくてよかったのだ。

多分、悠は誓とって「外せなかった枷」で「うち勝てなかった呪い」だ。だったら誓は9話の死で解放されたし、悠が誓から卒業することが誓にとって救いなんだ。

 

久慈誓ってどういう奴なのか

25歳の久慈誓は、裏の人間で犯罪者だ。

両親の借金があったせいで「金がないから裏稼業に身を落とした」と思いがちだし、実際私もそう思っていたが、4話回想で悠はこう言っている。

 

「悪いことしちゃだめって、いつもお父さんが」

「お父さんとお母さんの悪口言う兄さんなんか嫌いだ、兄さんが死ねばよかったんだ」

 

これを聞いたとき、割と衝撃だった。

これを言った悠の演技は、例えば「父と母の突然の死を受け入れられず、半ばヒステリー気味に叫び、やり場のない喪失感と不安と悲しみを兄に八つ当たりのようにぶつける」みたいなものではなかった。

いたってフラットに、悪い子を諌めるような、当然の怒りと言うように、このフレーズは前から彼が抱えていたと読み取れるような演技だ。

つまり錯乱のあまり思ってもいないことを言ったわけではなく、この「(両親が死ぬくらいなら、悪い)兄さんが死ねばよかったんだ」という感情は当然のように悠が彼の中に持っていたものではないか?と思えた。

 

ここから何が言えるのか?おそらく両親が友人に騙され多額の借金を背負わされたこととは全く別で、元来誓という男は「ろくでなし」だったのではないか?と思う。

9話の回想〜4話の回想に到るまでのどこかで、おそらく誓は両親の借金事情とは全く無関係で、なんだったらそれが起きる前からアウトローだったのではないか?と思う。

そう思えば、悠の口から自然と「兄さんが死ねばよかったんだ」というワードが出ることも想像に難くない。真っ当になれないろくでなしの兄、彼を窘めようとする父、暖かいはずの家に飛び交う心無い罵声。

まともではない兄が、少なからず家の和を脅かす存在であったとしたら。それを悠がずっと見てきたなら、兄が生きていて、善良な両親が死んだと言う現実を目の当たりにすれば、そういう言葉が出てもおかしくない。

4話の時点では、誓と裏との接点がこの両親の借金と死しかなかったため「金がないから裏稼業に身を落とした」と勝手に脳が補っていたが、9話の幼き久慈兄弟が参加している祭のことを考えると、接点はなくはなさそうだ。久慈誓が裏の道に進む縁は、別に両親の借金だけではないことが可能性として浮上してくる。

なお、9話の仲の良さそうな久慈兄弟と「兄さんが死ねばよかったんだ」は矛盾するようで矛盾しない。久慈兄弟はおそらく1対1では仲は良かったのだろう。誓が疎ましく思っていたのが両親、悠が嫌いとおもっていたのが両親の善なる愛を撥ね付ける兄なら、両親が介在しない1対1の久慈兄弟が険悪になることはない。

いろいろ脱線したが、総括すると以下の可能性が見えてくる。

久慈誓という男は、生粋の悪ではないか?と。

 

それでも「兄」である久慈誓

上記で述べたとおり、悪でろくでなしでアウトローであることが久慈誓の本質であると捉えると、彼の取る様々な行動には齟齬がない。

自分を追い回す厄介者から逃げるために燕太を蹴り飛ばして盾にするのも、弟分の軽率さを見かねて殺すのも、彼が「優しい悠の兄」と思えばとてもショックを受けるけれど、彼が魂の芯からアウトローで「悪いやつが生き残る」(=自分が生き残るためならこの厳しい世界、何をやってもいいしそう思えないやつは死んだって仕方ない)が信条の男だと思えば、そりゃあそうだ、と納得できる。

優しい兄が止むに止まれぬ事情で悪になっているのではなく、久慈誓という男は生まれたときから社会規範に従って生き、世間が決めた「真っ当」に乗っかって生きることがとても苦手だった。だから、久慈誓は別に優しくないし他人への思いやりはないし、正直者はバカだと思っていて、自分に好意を寄せるやつは利用価値のある素材だと思っていても、それが「彼」と言う人間なのだ。

 

それでも。それでも久慈誓は最後に悠を庇って死んだ。なぜか?悠を愛していたからか?違う。

悠が「弟」で、誓が「兄」だからだ。

 

誓は、アウトローで悪いやつでも、「兄」という自分の肩書きと「兄弟」という面倒な絆だけは、どうしても捨てられなかったし切れなかった。

誓は悠が好きで可愛いから庇ったのではない。悠が「血の繋がった弟」だから庇って「しまった」のだ。

自分より出来がいいし、真っ当なことしか言わないし、何だかわからない勝手な罪悪感で自分の道にくっついてくるし、そのくせ自分よりも「商売」の才能があって、いずれは自分の立場を脅かすかもしれない、どうしようもなく鬱陶しい目障りな存在、それが誓にとっての悠だ。

でも悠は弟だ。

どんなに鬱陶しくて目障りで、これが知人や友人や恋人なら簡単に切れる縁だったとしても、それでもどうしても切ることを戸惑うし、そう思う自分を守るためにか、可愛く愛しく見えてくる者、それが「兄弟」なんだと思う。

誓は9話Bパートラストのあの時、もし悠が友人や舎弟なら間違いなく殺せた。でも、悠が弟だったから殺せなかった。誓がどれだけ人を殺して悪さをやっても、誓と悠が同じ親から生まれて、誓が先にこの世に触れてそのあと悠がやってきて、そしてそれを誓も悠も「事実である」とお互いが認知してしまったそのときから、二人は何があっても一生兄弟だ。

 

それが誓にとっての面倒な繋がりだ。どんなに切りたくたって、切ったつもりになったって、土壇場で自分の足元を掬って全部を台無しにする、一生逃れられない枷で呪いだ。

悪でアウトローが誓だ。でも、それでも誓は「兄」なのだ。

 

9話ラスト、撃たれたことに衝撃を受ける誓。これが、誓が悠に敗北した決定的な瞬間だった。

悠のせいで予定が狂ったというのは、捨て台詞だ。これで自分の飯は当分なんとかしろ、と悠の頬に叩きつけた血濡れの万札は白旗だ。塗りつぶせなかった写真に映る幼い悠は、誓が「兄」という肩書きに勝てなかった証拠だ。

「兄」は「弟」には勝てない。少なくとも久慈誓の中にいた「兄」は「弟」を守る生き物だった。その生き物に、誓は勝てなかったのだ。

 

最後に

これまでつらつらと書いたことは、当たり前だけど妄想でしかない。誓が裏稼業に手を出したのはやはり実家の困窮が原因かもしれないし、誓は徹頭徹尾、弟の悠を愛していて、彼の行動原理は全て悠のためのものだったのかもしれない。

 

ただ、上記の妄想が誓の本質だったとしたら、9話で死んだ彼を11話の悠が回想しなかったことは、誓にとっては幸福だったろうと思った。

だって、切りたくて仕方のない縁から死してなお逃れられないって、それはもはや呪いではないか?

悠があえて誓を想起しなかった(想起する描写を入れなかった)のには、悠側の視点で色々と理由はあると思う。

が、久慈誓というキャラクターが好きでさらざんまいを見るようになった私としては、こうした整理を付けることですっきりすることができた。

 

今までずっと、残された側が死んだ相手を思い続ける「繋がり」が好きだった。

が、久慈誓というキャラクターを見たことで、「死後なお自分が望まない関係性を望まれ続けられることの苦しさ」とか「繋がらないことの自由さ」みたいな切り口でそのキャラクターの魅力を見つけようとする面白さを知った。繋がっていたい、がテーマのアニメのはずなのに、なんだか面白い。

 

そして、こうも思う。久慈誓は死んでいるから、その後のことなんて全くわからないし、お空の上から悠を想って見守っているなんてこともない。死んでるから。

 

死んでわかりあえるなんてない。

生きていないと意味がない。

思い出に永遠はない。会って見て話してを繰り返す日々がなければ人は人の記憶から消えていく。だから生きていないと意味がない。「生きて」つながっていないと意味がない。

そういうメッセージを久慈誓が背負っていたのかもしれないと思うと、やはり彼のことが一層好きになるし、11話の終わり方が良いな、と思えるのだ。